前から汚れていたのかもしれない

 嫌だった。本当に嫌だった。でも、突き放すほどの拒絶感はなかった。


 胡桃ちゃんの明るい笑顔は、温もりをわたしの与えてくれる。でも、触れることのできないその温もりは、時折切なく、わたしを狂わせる。


 そう、わたしは間違いを犯した。


 更衣室で、胡桃ちゃんが脱ぎ捨てた制服。ただの布切れに過ぎないはずのそれは、わたしを誘惑して離してくれなかった。気づけば顔を埋めていた。あの香りは、落ち着かさせるどころか心をかき乱す。罪悪感でいっぱいになりながらも止まらない、その瞬間から自分自身に汚れを感じるよなった。


 いくら体を洗っても、この汚れは落ちない。


 湯船に浸かりながら、何度も何度も肌を擦る。それでも心の奥にこびりついた罪悪感は、湯気に紛れるどころか、むしろ鮮明になっていく。


「……本当に最低だ」


 美琴さんは、胡桃ちゃんとは違う。反対に冷たい笑顔。蛇のように睨みを利かせ、恐怖を与える。その冷たさの裏に感じた体温は、胡桃ちゃんの笑顔よりもずっと現実的で、温かかった。


 嫌だった。でも、だからこそ強く拒絶できなかった。


 湯気に霞む鏡越しに、自分を睨む。無力で、震えている自分の姿が嫌で仕方ない。


 ドンドン


 扉の向こうから聞こえるノック音が、わたしを現実に引き戻した。


「お姉ちゃん、いつまでお風呂に入ってるの」


 妹の、鈴葉すずはだ。


「分かった、すぐに出る」


 どうやら、長湯をしていたみたい。湯船から立ち上がり、軽く水滴を払う。「はぁぁ」と重めの溜息を漏らしながらドアを開ける。


「えっ!?ちょ、お姉ちゃん!?」


「あ、ごめん。まだいたんだ」


「いたんだ、じゃないよ!なんでそんな状態で出てくるの!?信じらんない!」


「そんなに気にしなくてもいいじゃない。どうせ家族なんだし」


 自分でも分かる。おかしいのはわたしだ。だけど、わざと冷たくあしらうような口調になってしまう。鈴葉がその言葉にピクリと反応するのが見えた。


 わたしは、視線を逸らす鈴葉の手を掴み、自分の胸に押し当てる。


「ねえ、いつものわたしだと思う?」


「はあ、何言ってんの?」


「ちゃんと触って確かめてよ。本当に、何も変わってない?」


「変わってないよ!いつも通り!だから早く服着て!」


 どうやら、外見や感触ではわたしは変わっていないらしい。でも、今日、壊れてしまったのは確かだ。


「……信じらんない。もういい!」

 

 鈴葉は勢いよく扉を開け洗面所を出ていった。

 鈴葉、怒ってたな。そりゃそうだ。こんな姉、嫌だろうな。――何やってんだろう、わたし。


 着替えようとしたが、湯船に浸かりたい、その気持ちが先行し用意をするのを忘れていた。タオル一枚で部屋まで戻るのかあ……嫌だなあ。


 バスタオルをしっかり巻きつけ、洗面所を出る。廊下を進むと、鈴葉の部屋から小さな物音が聞こえる。

 ノックしようかと思ったが、結局やめた。顔を合わせたところで、まともに謝れる気がしなかったからだ。


 でも、鈴葉は怖いからなあ。さっさと機嫌を落ち着かせないと。


「鈴葉……いる?」


 返事がない、居留守だ。わたしと話したくないのかもしれない。


「……ごめんね、さっきは。明日プリン買ってくるから、それで機嫌直してくれる?」


 数秒、間が空きゆっくり扉に近づく音が聞こえてくる。


「プリンだけじゃ足りない」


「分かった、ミルクティーも買ってくるね」


 ちょろい……よかった、思ったより怒ってない。


 鈴葉とのやりとりで、ほんの少しだけ心が軽くなった気がする。でも、わたしの本当の問題は鈴葉じゃない。鈴葉は、わたしが本当に抱えている闇なんて知らないから、軽口で済む。けれど――美琴さんとのことは、違う。


 胡桃ちゃんには、絶対に知られてはいけない。

 あの明るい笑顔に、汚れたわたしの影なんて差し込みたくない。

 それでもわたしは、胡桃ちゃんの制服に顔を埋めてしまった。言い訳のしようもないほど最低な行為。


 その結果が美琴さんの奴隷になること。


 罪滅ぼし。 そう言い聞かせているけれど、本当は逃げているだけだ。

 美琴さんの「奴隷」であること。それが、わたしの存在意義になってしまったのだ。


 着替えを用意しようと、クローゼットのドアに手をかけと、テーブルに置いてあったスマホが揺れる。


 こんな時間に誰だろう、そう思ってメッセージを確認する。


『明日の放課後、図書室にきて』


 それだけの文面。わたし、何されるんだろう。何を命じられるのだろう。もちろん拒否権はない。その選択肢を取るならば、全校生徒に知られてしまう。もちろん、胡桃ちゃんにも。それだけは絶対に避けなければならない。


『分かりました』


 ◇◇◇


 翌日、放課後。わたしは図書室へと足を運んだ。


「美琴さん、わたしは何をすればいいの?」


「まあまあ、そんな焦らないでよ。ゆっくりしましょう」


 ウソ……焦る気持ちを抑えているのはそっちでしょ。


「いいよ、そういうの。目を見れば分かるから」


「バレてたのね。そうね、今にもぐちゃぐちゃに汚したい気分だわ」


 また、あの目だ。蛇のように鋭く、そらしたくなるほど冷たい視線。


「椎名って変わってるよね」


「美琴さんだけには言われたくないね」


「気づいてないの?あなた、この状況で笑ってるわよ」


 え……?そんなはずはない。今日1日中、放課後なんかこなきゃいいのに、なんて思ってたはずなのに。


 思わずわたしは、手で顔を隠すように覆う。


「こ、こわいからだよ」


「ふふ、そういうことにしといてあげる。それより態度が気にくわないわね」


 そう言うと彼女は、わたしの胸に手を置いた。

 彼女の腕を掴み振りほどこうとしたが、愚かな行動だと悟り、自分の手を引き下げる。美琴さんがすることに逆らってはいけない。きっと主従関係に反する行動は嫌がるはずだ。


「分かってるね。立場を理解して何より」


 美琴さんは恍惚な表情を見せる。本当に嫌な人。目のハイライト、視線、表情、彼女は言葉以外で気づかせてくる。彼女の機嫌をうかがうのは、常に命の綱渡り。


「わたしっていつものわたしですか?」


 妹に聞いた質問を美琴さんにも聞いてみる。


「安心して変わってないから」


 そんなことがあるのか?昨日、間違いなくわたしは壊れた、壊されたはず。

 彼女の顔を見て見ても、嘘を言っているようには見えない。それどころか、指先でわたしの胸をなぞり楽しそうな笑みを浮かべている。


「もう、満足しましたか?そろそろ帰りたいです」


「え、まだ何も命令してないでしょ?」


 胸を触る。勝手に、それが彼女がしたいことだと思っていた。


「今しているのは、ただの前戯ぜんぎみたいなもの」


「じゃあ、はやく終わらせて本題に進んでください」


「それじゃあ、命令するわね。私の足を舐めなさい」





 淡々と靴を脱ぎ、ストッキングを脱ぎ素足を晒す。

 美琴さんは、周りを気にする素振りなんか見せない。


 放課後の図書室なんてほとんど人はいない。だからと言って閑静ってわけでもない。暇つぶしに居座る人、課題に取り組む人、少数ながらたしかにいる。


 この時間の図書室から聞こえてくる音と言えば、ひそひそ声、本を捲る音、ペンが紙の上を走る音。たったのこの3週類だけ。なのにこの空間に、似つかない音が聞こえてくる。布と肌が擦れる音。手の届く距離でやっと聞こえるその微かな音が、周りに聞こえていないか心配で仕方なかった。


 やっとのことで美琴さんは両足を晒した。美琴さんが晒した素足は、白く細く、まるで陶器のようだった。図書室の人気のない本のコーナーに異物が紛れた瞬間である。


「どうしたの?」


 誰だって躊躇うこの場面。いくら綺麗に見えても今から舐めると考えると、体が硬直するのも無理はない。


「……ちゃんと綺麗にしてきたから安心して。あなたが嫌がらないようにね」


「無理です」


 わたしの声は小さく、消え入りそうだった。でも、これだけは言わないといけなかった。


 美琴さんは一瞬、驚いたように目を見開いたが、決して怒るようなことはなく逆に優しさに溢れる笑みを浮かべる。


「大丈夫、椎名ならできるよ。更衣室でしたことよりマシでしょ?」


 その言葉は、冷たい手で首を絞められるような感覚をもたらした。逃げられない。拒否したら、それ以上にひどいことが待っているかもしれない。わたしは唾を飲み込む。心臓がバクバクと鳴り、全身の血が沸騰しそうだった。舐める?そんなことを本当にしろと?


 目の前の足は白く美しい。確かに、汚れ一つないように見える。それでも、そんな問題ではない。これは人として超えてはならない一線だ。


「ふふ、怖がらなくていいわよ」


 彼女は優しい声を出すが、それは全く慰めにはならない。


「1つ聞いてもいい?」


「何でもどうぞ」


「どうしてわたしを奴隷に選んだの?弱みを握った、それだけの理由じゃないよね?」


 酷い話だけど、もし、自分に誰かを奴隷にする権利があるならこんな意味のないことはさせない。もっと、自分のためになることをさせる。


 軽いものだとパシリとして扱ったり、自分の課題を押し付けたり。踏み込めば、お金を巻き上げたり欲望のままに暴力的な思考になっていくと思う。


 例えば、立場が逆転するのであれば、美琴さんの光沢を放つを綺麗なロングヘアーを乱雑に切り刻むと思う。胡桃ちゃんには……あまり想像したくないことをするかも。


 奴隷って0か100の極端な関係性だからこそ、美琴さんの目的が分からない。


「あなたには純白の恋は似合わないと思ったから」


 言葉の意味が掴めなかった。純白の恋?それが、どうしてこんな状況と結びつくの?わたしの混乱を見透かしたかのように、美琴さんは微笑む。


「わたし、あなたに教えてあげたいのよ。どれだけ汚れているのかを。そして、その汚れの中でしか生きられない自分を受け入れる覚悟をね」


 彼女の声は静かで、鋭い針のようにわたしの心に突き刺さる。汚れている?覚悟を持て?どうしてそんなことを言われなければならないのだろう。それでも、わたしの反論は喉元で詰まり、言葉にはならなかった。


 美琴さんは壁に背もたれを付け、足を差し出す。


「さあ、どうする?できるわよね」


 視線を足から逸らしたくても、どうしても目が離せない。それはまるで、蛇に睨まれたカエルのような状態だ。わたしは何度も深呼吸を繰り返す。

 意を決して、美琴さんの足に顔を近づける。鼻先に彼女の体温を感じる距離まで来た時、恥ずかしさと屈辱感が一気に押し寄せる。わたしは唇を震わせながらも、彼女の足の甲にそっと触れた。


 舌を少しだけ伸ばし、彼女の足を舐める。その感触は、思った以上に柔らかく、意外と温かい。わたしは涙をこらえるため、目をぎゅっと閉じる。


「ふふ、いい子ね。そのまま、もっと丁寧に」


 美琴さんの声は、まるで猫を撫でる時のように甘い。それがまた、わたしを深い絶望へと追いやる。彼女の足の甲から足首へと舌を這わせるたび、わたしは少しずつ人間である自分を手放していくような感覚に陥る。


「そう、上手よ。思った以上に素直じゃない」


 美琴さんの足に触れるたび、その柔らかさと温もりに逆らえない自分が腹立たしい。足元に跪き、彼女の足を舐めるわたしは、どうしようもなく惨めだった。


「椎名、可愛いよ。可愛すぎるんだよ……まだ、我慢、抑えろ私」


 彼女の囁き声は、わたしの耳にははっきりと届いた。その声には、抑えきれない感情が滲んでいた。まるで何かを必死に堪えているような、そんな響きがあった。


 顔を上げることができない。彼女の表情がわたしをどう思っているのか、何を期待しているのか、そんなことを知りたくなかった。だから、ただ足元だけを見つめ、与えられた行為を続けるしかなかった。


「椎名、本当に可愛いわね。あなたがこうして素直に従う姿、ずっと見ていたいくらいよ」


 ちらりと目を開けると、視界の端に映る美琴さんの手が震えているのがわかった。その拳は白くなるほど力がこもっていて、爪が手のひらに食い込んでいるのが見て取れる。わたしは無意識に息を呑む。彼女が何を堪えているのか、想像したくなかった。


「……美琴さん」


 絞り出すように声を出すと、彼女はハッとしたようにわたしを見下ろした。その瞳の奥には、わたしが知らない感情が宿っているようだった。まるで、抑えきれない欲望と、それを押し殺そうとする理性の狭間で揺れているような――そんな目。


「……椎名、やっぱりあなたは特別ね」


「特別、ですか?」


 わたしは思わず問い返す。その言葉の意味を知りたかった。彼女の「特別」という言葉が、どれだけの重みを持つのかを。


「ええ、そうよ。あなたは、私の期待以上の存在。だからこそ、もっと見たいの。あなたがどこまで壊れていくのかを……どこまで、私の色に染まるのかを」


 既に壊れていると思っていたが、美琴さんから見てわたしはまだ、壊せる部分が残っているらしい。


「美琴さん……わたしの心は汚れているんですよね?」


「そうだね。ハッキリ言って汚物」


「あなた色に染まったら、わたし……綺麗になれますか?」


「椎名からはどう見えてるの?私って」


「濁りきってます、嫌いになるほど」


 わたしの言葉に、美琴さんの唇がかすかに動いた。それは微笑みなのか、嘲笑なのか、わからない。けれど、その瞳には確かに光が宿っていて、まるで獲物をじっと見つめる捕食者のような、そんな冷たさと熱が同居している。


「あはは、似た者同士だね。こういうのを運命って言うのかな?」


 似た者同士――そんなはずがない。認めたくない。


「さて、今日はここまでにしておきましょうか」


 美琴さんは急に何事もなかったかのような口調に戻り、足を引っ込める。


 わたしの唾液で気持ち悪いはずなのに、美琴さんはお構いなくストッキングは履く。彼女はいつも通りの日常に溶け込む。


 図書室を出ると、外はもう薄暗くなっていた。夕焼けの赤い光が廊下を染める中、美琴さんは軽やかな足取りで歩いていく。


「椎名、また明日」


 校門の前でそう告げられた時、わたしはただ無言で頷くしかなかった。言葉を返す気力も、何を言えばいいのか考える余裕もなかったからだ。美琴さんは軽く手を振り、その場を後にする。その姿が視界から消えるまで、わたしは立ち尽くしていた。

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