3-12 アマネ
約束の十三時の空は
初めて訪れた土地を
古い家屋をリフォームしたという新居は、白い外壁が目を引くカントリー風の建物で、
インターホンを押すと、玄関扉からサマーワンピース姿のアリスが出迎えてくれた。金髪はこめかみの編み込みごとすっきりと束ねられていて、今日の陽光よりも
「Thank you for inviting us over.(お招きいただきありがとうございます)Let me introduce you to my friend, Hana(紹介します、こちらが私の友達の巴菜ちゃんです)」
「ええっ? えっと、マイネームイズ、ハナ、ニシムラ。ナイストゥーミートユー」
巴菜ちゃんが、おろおろと合いの手を入れてくれた。アリスも
「Here's something I thought you might like(こちら、お好きかなと思って)」
「Oh, thank you!(まあ、ありがとう!)」
アリスは、私から手土産を受け取った。紙袋の中身は、お肉屋さんで買ったハムとウインナーの詰め合わせ、それから巴菜ちゃんの意見で買ったビールだ。お酒を買おうと提案されたとき、私は昨夜の出来事がフラッシュバックしたけれど、何食わぬ顔で会計を済ませた。店員さんから年齢確認をされたことが、なんとなく印象に残っている。お酒を買う私の姿に、いつかは誰も違和感なんて持たなくなる。そのときが来たら、飲み会での出来事なんて、笑い話にできるはずだ。炭酸飲料を
「ミオ、ホームパーティーにお呼ばれした場合の英会話を、ちゃーんと勉強してきたのね。日本語で言うところの『つまらない物ですが』に当たる奥ゆかしい言い回しを選んだところも、ミオの優しい性格が表れていて素敵よ」
「ありがとうございます。アリスへの一番のお
「もう、そういうところが本当に可愛いわね! ああ、ハナ。安心してね? 英会話はここまでにしておくから。今日の私は、英会話教室の『アリス・ベネット』じゃなくて、ヤスヒコの妻の『
ぽかんとしている巴菜ちゃんから、アリスは庭へ視線を転じた。私もそちらを振り向くと、オリーブの木の下にいたポロシャツ姿の男性が、
「ミオ、ハナ。紹介するわ。私のダーリンよ」
「いらっしゃい。君が倉田さんで、そちらがお友達の
「はい、こんにちは。本日は、お招きいただきありがとうございます」
「こちらこそ、今日は来てくれてありがとう。妻からいつも話を聞いているよ。倉田さんは、とても
「アリス、そんなふうに私のことを話してたんですか?」
少し照れた私がアリスに訊くと、アリスは「そうよ!」と答えてニコニコした。
「日本人って『はい』と『いいえ』を明確にできない
「ほらね。こんなふうに、楽しそうに君のことを話すんだ。僕は、アリスの夫の
「ヤスヒコったら。アマネなら、さっき帰ってきたじゃないの。今はキッチンで私を手伝ってくれているわ」
「ああ、そうだったね。庭の準備に熱中しているうちに忘れてた」
「もう、我が家に泊まる人のことを忘れるなんて。アマネが聞いたら怒るわよ?」
「集中したら周りが見えなくなるのは、相手も同じだよ。ああ、倉田さんと西村さんは、鞄を家の中に置いてから、また庭に戻っておいで」
微笑んだ
「ミオ、ハナ。どうぞ上がって。そのあとで、また庭に出ましょう」
アリスに連れられて綾木家に上がると、白い壁からは新築の木の香りがした。スリッパを履いた巴菜ちゃんが、「旦那さん、落ち着いた感じの素敵な人ですね!」とアリスに話しかけている。「でしょ? ヤスヒコは最高の夫よ!」と上機嫌で応じたアリスは、リビングに私たちを案内した。
開放感のある空間は、バニラの甘い香りがした。立派なオープンキッチンに吊るされたペンダントライトは、彗のアトリエのものよりも小ぶりで、行儀よく三つ並んでいる。屋根と同じ色のマントルピースには、私の家の玄関みたいに、写真立てが一つ飾られていた。今よりも髪が短いアリスと、まだ眼鏡を掛けていない綾木さんが、ゴッホの油彩画『夜のカフェテラス』みたいなオープンカフェで、満ち足りた笑みで写っている。目玉焼きが載ったガレットは、きっとハムとチーズと卵だけでなく、遠い異国の香りも包んでいる。どこの国で撮った写真だろう。そんな疑問を読み取ったみたいに、アリスは写真立てのそばに立った。
「ヤスヒコとは、学生時代の海外旅行で出会ったの。私が生まれたアメリカでも、ヤスヒコが生まれた日本でもない場所よ。なかなか運命的でしょ?」
頬を少女のような
「ミオ? どうしたの?」
アリスが、私を呼んだ。ぼうっとしていた私は、「いえ、なんでも……」と言いかけて、やっぱりちゃんと言葉にした。
「アリスが幸せだと、私も嬉しいなって思ったんです」
幸せの形を見つけた人が、少なくともここに一人いる。そんな事実は、これからも午前四時の暗闇に逃げ込みたくなったとき、確かな
アリスは「嬉しいわ」と言って笑ったけれど、ふと巴菜ちゃんに視線を転じて、形のいい眉を心配そうに下げた。
「ハナ。なんだか元気がないみたいね?」
それに――本当は、もっと前から異変を感じていた。駅で待ち合わせたときも、手土産を二人で選んだときも、巴菜ちゃんは
「分かるんですか? アリスさんって、すごいですね」
歯切れ悪く答えた巴菜ちゃんは、「えへへぇ、英語の小テストで酷い点数を取っちゃって」と言い訳した。アリスも怪しまずに「そうなの?」と軽やかに答えている。
「ハナも、うちの教室に来てみない? 八月の入会は、割引でお得よ?」
「あはは、あたしも気になっていましたけど、澪ちゃんみたいな根性が足りないので、今は遠慮しておきます」
そんな受け答えも、どことなく巴菜ちゃんらしくない。『澪ちゃんみたいな』の部分に
――昨夜、
――『おかえり、澪』
――『ただいま……彗』
彗は、たぶん私の声を聞いただけで、何かがあったと悟ったと思う。続いた言葉は、いつも感情のトーンがフラットな彗にしては、どこか声音が
――『ゼミ仲間との夕食は、楽しめた?』
彗に、嘘はつきたくない。けれど、正直に全てを明かしたら、彗に心配を掛けてしまう。大切な仕事を抱えている彗には、絵のことに集中してほしかった。
それに、飲み会のことはともかく――星加くんのことを、彗に言えるわけがない。
――『私には、合わなかったみたい』
短い感想だけを囁くと、厚い雲が垂れ込めた真夜中みたいな、重苦しい沈黙が降りた。けれど、この沈黙に重さを与えたのは私だけで、電波を通した向こう側まで、この苦しさは伝わっていないと信じたい。でも、現実はそんなに甘くなかった。
――『澪。今から、そっちに行ってもいい?』
彗に、心配を掛けてしまった。開きかけた唇を、きゅっと噛んで言葉を呑む。
本当は、彗の言葉を受け入れたかった。油絵具の香りがする胸に飛び込めば、
――『ごめん。明日は、澪はアリスさんの家に行く日だったね。今日は、早く寝たほうがいい』
そう言った彗の声は、いつも通りの穏やかで優しいトーンだったから、私は半分寂しくなって、半分ホッとして、囁いた。
――『ありがとう。そうするね……』
短い回想を終えたとき、リビングの扉がガチャリと音を立てて開き、はっとした。
真っ先に反応したアリスが振り向き、「アマネ! どこに行ってたのよ、キッチンにいると思ってたのに、いないんだもの!」と明るい表情で文句を言う。その人物と向き合った私は、思わず目を丸くした。
「せっかく買い足したグラニュー糖を、車の中に置き忘れたから、取りに戻っていたんです。その間に、可愛いお客さんが到着したみたいですね」
テノールの声は、
――アリスが『アマネ』と呼んだ人は、すらりと背が高い男性だった。水色のシャツにワイドパンツ姿の『アマネ』さんは、
「初めまして、
「はい……失礼いたしました」
恐縮する私に、『アマネ』さん――
「
「こちらこそ、よろしくお願いいたします。私は、倉田澪と申します。本日は、ご一緒できて嬉しいです」
私に続いて、巴菜ちゃんも挨拶をすると思いきや、巴菜ちゃんは私の隣で、心ここにあらずの顔をしている。「巴菜ちゃん?」と声を掛けると、はっとした様子で「西村巴菜です」と言ったけれど、まだ
「西村さんだね。こんにちは。アリスさんに会いにきたのに、知らない人がいたからびっくりしたよね」
「いえっ、そんなことありません! えっと、本日はよろしくお願いします!」
「こちらこそ。今日は文学部の学生さんが来られると
清流を下る
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