3-12 アマネ

 約束の十三時の空は薄曇うすぐもりで、日差しが普段よりも柔らかかった。

 初めて訪れた土地を巴菜はなちゃんと迷子になりながら歩いたので、炎天下でなくて助かった。それでも閑静かんせいな住宅街はし暑くて、目の前に田園でんえん風景が拡がったときには、本当にアリスの家にたどり着けるのか不安になったけれど、無事に目的地の戸建こだてに到着できてホッとした。

 古い家屋をリフォームしたという新居は、白い外壁が目を引くカントリー風の建物で、梅鼠うめねず色と灰桜はいざくら色がミックスされた屋根が可愛らしい。ライトブラウンの窓枠や、広い庭の入り口に打たれた丸太のくいも、かなり離れた先に見える隣家の田畑や、遠くに連なるあおい山並みと調和している。玄関アプローチに沿って咲いた桔梗ききょうながめていた巴菜ちゃんが、「緊張するね」と話しかけてくれたことも、私が安堵あんどした理由の一つだ。今日の巴菜はなちゃんは、Tシャツにカーゴパンツというバーベキューに合わせたスタイルで、偶然にも私の格好と少し似ている。大丈夫、と私は自分に言い聞かせた。私たちは、ちゃんと笑顔で会話できている。

 インターホンを押すと、玄関扉からサマーワンピース姿のアリスが出迎えてくれた。金髪はこめかみの編み込みごとすっきりと束ねられていて、今日の陽光よりもかがやかしい。青色の目を細めたアリスは、溌溂はつらつと「待っていたわ、ミオ!」と言ったから、私も「アリス、こんにちは」と日本語で挨拶して、少しだけ英語に切り替えた。

「Thank you for inviting us over.(お招きいただきありがとうございます)Let me introduce you to my friend, Hana(紹介します、こちらが私の友達の巴菜ちゃんです)」

「ええっ? えっと、マイネームイズ、ハナ、ニシムラ。ナイストゥーミートユー」

 巴菜ちゃんが、おろおろと合いの手を入れてくれた。アリスも悪戯いたずらっぽく笑って「Hi, Hana. Nice to meet you, too(こんにちは、ハナ。初めまして)」と乗ったところで、私は手土産てみやげを紙袋から取り出した。

「Here's something I thought you might like(こちら、お好きかなと思って)」

「Oh, thank you!(まあ、ありがとう!)」

 アリスは、私から手土産を受け取った。紙袋の中身は、お肉屋さんで買ったハムとウインナーの詰め合わせ、それから巴菜ちゃんの意見で買ったビールだ。お酒を買おうと提案されたとき、私は昨夜の出来事がフラッシュバックしたけれど、何食わぬ顔で会計を済ませた。店員さんから年齢確認をされたことが、なんとなく印象に残っている。お酒を買う私の姿に、いつかは誰も違和感なんて持たなくなる。そのときが来たら、飲み会での出来事なんて、笑い話にできるはずだ。炭酸飲料をのどに流し込んだような痛みを回顧かいこしていると、「手ぶらでいいって言ったのに、気を使わせちゃったのね」と、アリスが肩をすくめて日本語で言った。

「ミオ、ホームパーティーにお呼ばれした場合の英会話を、ちゃーんと勉強してきたのね。日本語で言うところの『つまらない物ですが』に当たる奥ゆかしい言い回しを選んだところも、ミオの優しい性格が表れていて素敵よ」

「ありがとうございます。アリスへの一番のお土産みやげは、習った英語で挨拶をすることかなと思ったから」

「もう、そういうところが本当に可愛いわね! ああ、ハナ。安心してね? 英会話はここまでにしておくから。今日の私は、英会話教室の『アリス・ベネット』じゃなくて、ヤスヒコの妻の『綾木あやきアリス』だもの。ねえ、ヤスヒコ?」

 ぽかんとしている巴菜ちゃんから、アリスは庭へ視線を転じた。私もそちらを振り向くと、オリーブの木の下にいたポロシャツ姿の男性が、会釈えしゃくしてこちらに歩いてきた。雲間から射し込んだ陽光が、短髪と眼鏡のつるを輝かせる。歳は、三十代半ばだろうか。図書館や本屋さんが似合いそうな、穏やかな雰囲気の人だった。

「ミオ、ハナ。紹介するわ。私のダーリンよ」

「いらっしゃい。君が倉田さんで、そちらがお友達の西村にしむらさんだね」

「はい、こんにちは。本日は、お招きいただきありがとうございます」

「こちらこそ、今日は来てくれてありがとう。妻からいつも話を聞いているよ。倉田さんは、とても健気けなげで可愛いお嬢さんだってね」

「アリス、そんなふうに私のことを話してたんですか?」

 少し照れた私がアリスに訊くと、アリスは「そうよ!」と答えてニコニコした。

「日本人って『はい』と『いいえ』を明確にできないひかえめな方が多いから、最初はミオもそんな一人だと思っていたの。でも、話してみると印象が違ったわ。押しに弱そうだけど、学びに対する情熱は本物で、しんが強い子だと思ったの。そんなミオのことが好ましいから、あなたが英会話を上達させることが『アリス・ベネット』としてだけでなく、『綾木あやきアリス』としても嬉しいの」

「ほらね。こんなふうに、楽しそうに君のことを話すんだ。僕は、アリスの夫の綾木泰彦あやきやすひこです。あともう一人、今日は僕の友人を招いているよ。今は買い出しに出掛けてもらったから、のちほど紹介させてもらうね」

「ヤスヒコったら。アマネなら、さっき帰ってきたじゃないの。今はキッチンで私を手伝ってくれているわ」

「ああ、そうだったね。庭の準備に熱中しているうちに忘れてた」

「もう、我が家に泊まる人のことを忘れるなんて。アマネが聞いたら怒るわよ?」

「集中したら周りが見えなくなるのは、相手も同じだよ。ああ、倉田さんと西村さんは、鞄を家の中に置いてから、また庭に戻っておいで」

 微笑んだ綾木泰彦あやきやすひこさんは、目元の優しい雰囲気が彗に似ていた。知的でおおらかな印象は温かくて、私は漠然ばくぜんに落ちた。アリスが愛している人は、こういう人なのだ。鼻腔びこうをくすぐる炭火の匂いは、綾木あやきさんの後ろに置かれたバーベキューコンロから漂っているのだろう。カラフルな折り畳み式のガーデンチェアは五脚あり、パラソルの下で花柄のクロスが掛けられたテーブルには、食材と紙皿が用意されていた。

「ミオ、ハナ。どうぞ上がって。そのあとで、また庭に出ましょう」

 アリスに連れられて綾木家に上がると、白い壁からは新築の木の香りがした。スリッパを履いた巴菜ちゃんが、「旦那さん、落ち着いた感じの素敵な人ですね!」とアリスに話しかけている。「でしょ? ヤスヒコは最高の夫よ!」と上機嫌で応じたアリスは、リビングに私たちを案内した。

 開放感のある空間は、バニラの甘い香りがした。立派なオープンキッチンに吊るされたペンダントライトは、彗のアトリエのものよりも小ぶりで、行儀よく三つ並んでいる。屋根と同じ色のマントルピースには、私の家の玄関みたいに、写真立てが一つ飾られていた。今よりも髪が短いアリスと、まだ眼鏡を掛けていない綾木さんが、ゴッホの油彩画『夜のカフェテラス』みたいなオープンカフェで、満ち足りた笑みで写っている。目玉焼きが載ったガレットは、きっとハムとチーズと卵だけでなく、遠い異国の香りも包んでいる。どこの国で撮った写真だろう。そんな疑問を読み取ったみたいに、アリスは写真立てのそばに立った。

「ヤスヒコとは、学生時代の海外旅行で出会ったの。私が生まれたアメリカでも、ヤスヒコが生まれた日本でもない場所よ。なかなか運命的でしょ?」

 頬を少女のような薔薇ばら色に染めて、アリスは思い出を見つめている。この家で綾木さんと暮らす日々が、アリスにとっての幸せなのだ。かつての絢女あやめ先輩の言葉が、頭の隅を流星みたいによぎった。――『澪ちゃん。私、幸せになるよ』

「ミオ? どうしたの?」

 アリスが、私を呼んだ。ぼうっとしていた私は、「いえ、なんでも……」と言いかけて、やっぱりちゃんと言葉にした。

「アリスが幸せだと、私も嬉しいなって思ったんです」

 幸せの形を見つけた人が、少なくともここに一人いる。そんな事実は、これからも午前四時の暗闇に逃げ込みたくなったとき、確かな道標みちしるべになる気がした。

 アリスは「嬉しいわ」と言って笑ったけれど、ふと巴菜ちゃんに視線を転じて、形のいい眉を心配そうに下げた。

「ハナ。なんだか元気がないみたいね?」

 なごやかな空気に、ひびが入った。巴菜ちゃんは、目をしばたいてびっくりした――ふりをしているけれど、本当は驚いていないことくらい、まだ付き合いが半年にも満たない私でも分かってしまう。私がアリスの幸せを喜んだとき、巴菜ちゃんは俯いたから。

 それに――本当は、もっと前から異変を感じていた。駅で待ち合わせたときも、手土産を二人で選んだときも、巴菜ちゃんはうわの空だった。いつもは太陽みたいに眩しい笑みにも、今日の天気みたいな薄雲うすぐもが掛かっている。

「分かるんですか? アリスさんって、すごいですね」

 歯切れ悪く答えた巴菜ちゃんは、「えへへぇ、英語の小テストで酷い点数を取っちゃって」と言い訳した。アリスも怪しまずに「そうなの?」と軽やかに答えている。

「ハナも、うちの教室に来てみない? 八月の入会は、割引でお得よ?」

「あはは、あたしも気になっていましたけど、澪ちゃんみたいな根性が足りないので、今は遠慮しておきます」

 そんな受け答えも、どことなく巴菜ちゃんらしくない。『澪ちゃんみたいな』の部分に卑屈ひくつとげすら感じて、私はかぶりを振った。――私の心が、少し狭くなっているだけだ。飲み会の夜の出来事が、私の体力と精神力を削っていたのは事実なのだから。

 ――昨夜、星加ほしかくんから告白されたあと、一人で帰宅した私は、スマホのメッセージアプリに彗から連絡が入っていたことに気づいた。『遅くなるなら、迎えに行くよ』というシンプルな文字が目に入っただけで、張り詰めていたものが急に緩んで、涙がもうひとしずくだけ零れた。気持ちを落ち着けてから『いま帰ったよ』と返信して、湿ったワンピースを着替えようとしたところで、彗から電話が掛かってきた。

 ――『おかえり、澪』

 ――『ただいま……彗』

 彗は、たぶん私の声を聞いただけで、何かがあったと悟ったと思う。続いた言葉は、いつも感情のトーンがフラットな彗にしては、どこか声音がかたかった。

 ――『ゼミ仲間との夕食は、楽しめた?』

 彗に、嘘はつきたくない。けれど、正直に全てを明かしたら、彗に心配を掛けてしまう。大切な仕事を抱えている彗には、絵のことに集中してほしかった。

 それに、飲み会のことはともかく――星加くんのことを、彗に言えるわけがない。

 ――『私には、合わなかったみたい』

 短い感想だけを囁くと、厚い雲が垂れ込めた真夜中みたいな、重苦しい沈黙が降りた。けれど、この沈黙に重さを与えたのは私だけで、電波を通した向こう側まで、この苦しさは伝わっていないと信じたい。でも、現実はそんなに甘くなかった。

 ――『澪。今から、そっちに行ってもいい?』

 彗に、心配を掛けてしまった。開きかけた唇を、きゅっと噛んで言葉を呑む。

 本当は、彗の言葉を受け入れたかった。油絵具の香りがする胸に飛び込めば、艱難辛苦かんなんしんくあふれた世界のことなんてまだ知らない子どもみたいに安心して、怖いものなんて何もなくなる。でも、そのときは今度こそ、涙が止まらなくなってしまう。だけど、それでも――けれど、私が迷っているうちに、彗も考えを変えてしまった。

 ――『ごめん。明日は、澪はアリスさんの家に行く日だったね。今日は、早く寝たほうがいい』

 そう言った彗の声は、いつも通りの穏やかで優しいトーンだったから、私は半分寂しくなって、半分ホッとして、囁いた。

 ――『ありがとう。そうするね……』

 短い回想を終えたとき、リビングの扉がガチャリと音を立てて開き、はっとした。

 真っ先に反応したアリスが振り向き、「アマネ! どこに行ってたのよ、キッチンにいると思ってたのに、いないんだもの!」と明るい表情で文句を言う。その人物と向き合った私は、思わず目を丸くした。

「せっかく買い足したグラニュー糖を、車の中に置き忘れたから、取りに戻っていたんです。その間に、可愛いお客さんが到着したみたいですね」

 テノールの声は、みぎわをくすぐる小波さざなみのように穏やかだ。その人は、誰の元にも平等に吹き渡る潮風みたいな爽やかさで、私と巴菜ちゃんに笑いかけた。

 ――アリスが『アマネ』と呼んだ人は、すらりと背が高い男性だった。水色のシャツにワイドパンツ姿の『アマネ』さんは、綾木あやきさんよりも年下で、二十代後半くらいだろうか。映画俳優みたいに整った容貌ようぼうは、きっと絢女あやめ先輩みたいに、たくさんの人目を引いてきたはずだ。その一方で、雰囲気の柔らかさは綾木さんにそっくりで、優しそうな甘さの垂れ目も、初対面の近寄りがたさを溶かしていた。

「初めまして、高嶺周たかみねあまねと申します。名前の漢字は、円周率えんしゅうりつの周で『アマネ』と読みます。アリスさんが僕を『アマネ』と呼ぶから、女性だと思いました?」

「はい……失礼いたしました」

 恐縮する私に、『アマネ』さん――高嶺周たかみねあまねさんは、「慣れていますから。気にしないでね」と気さくに言って笑ってくれた。

綾木あやき先輩とは、出身大学が同じご縁で、仲良くさせてもらっています。今日は、よろしくね」

「こちらこそ、よろしくお願いいたします。私は、倉田澪と申します。本日は、ご一緒できて嬉しいです」

 私に続いて、巴菜ちゃんも挨拶をすると思いきや、巴菜ちゃんは私の隣で、心ここにあらずの顔をしている。「巴菜ちゃん?」と声を掛けると、はっとした様子で「西村巴菜です」と言ったけれど、まだくもりが晴れない笑みだった。

「西村さんだね。こんにちは。アリスさんに会いにきたのに、知らない人がいたからびっくりしたよね」

「いえっ、そんなことありません! えっと、本日はよろしくお願いします!」

「こちらこそ。今日は文学部の学生さんが来られると綾木あやき先輩からうかがっていたから、文学の話ができるんじゃないかと思ってね。楽しみにしていたんだ」

 高嶺たかみねさんと巴菜ちゃんは、見る間に会話を弾ませた。巴菜ちゃんがぼんやりしていたのは、高嶺さんに見惚みとれたから、というわけではないと思う。理由に思いをせていると、沈黙を守っていたアリスと目が合った。

 清流を下る笹舟ささぶねを見送るようなうれいの目が、大学の学食から星加くんの元へ駆け出していった巴菜ちゃんを見送る絢女あやめ先輩の眼差しと、どうしてかぴたりと重なった。

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