読了して最初に感じたのは、あぁ、これが文学なのだなぁ。ということ。
彼女が突然海苔の佃煮になってしまったら、普通は狂乱します。
でも主人公は違う。現実にいたならサイコパスか!って突っ込みたくなる思考と行動をします。
しかし、それがすっと心に入ってくる。確かにこう考えるかもしれないなぁ、とか、これは違うんじゃないか、とか、主人公目線で物事を考え、いつしかその世界に馴染んでしまう自分がいる。
あぁ、これが文学なのだなぁ。
もしこの短編がショートムービーにでもなったものなら気持ち悪くて目を背けてしまうかもしれない。
でも、文章だからこそ、それが心に染み込んで、思考に入り込んで、物語と一体となれるのだと。それこそ主人公が美羽花と混ざり合うように。
あぁ、これが文学なのだなぁ。
私が今抱いてる感情は、驚嘆であり、感心であり、安堵である。そう思います。
カクヨムでこのような作品に出会えたことが嬉しい。
素敵な作品、そして偉大なる問題作、是非多くの人に読んでいただきたいです!
わけのわからない話。
というのが、第一印象だった。
最初から最後までひたすらシュールである。
内容は決して万人向けではない。
合わない人はとことん合わないと思う。
読後に嫌悪感しか残らない人もいるだろう。
しかし、不思議なことに気付く。
はじめは「わけのわからない話だ」と思っていたはずなのに、物語を読み進めていくうち、あるいは物語を読み終えてあれこれ考えているうち、自分のなかで「もしかして、こういう意味かな」などと解釈が出来上がってゆくのだ。
そこには巧妙な(?)仕掛けがある。
この物語には、さまざまな部品が用意されている。
「海苔の佃煮」「不貞腐れた」「プリン」「消費期限」「キープ」などだ。
読み手はこれらの部品を「自由に」選んで組み立てて「自分の好きなように」物語を解釈することができる。
シュールな物語と見せかけて、実はとっても親切設計なのだ。
興味深いのは、ひとつひとつの部品がユニークなこと。
これが詩一さんの作品の魅力なのかもしれない。
この話を「理解できなかった」と思う人でも、読後にはその手の中に何かが残っているはず。
何を掴むかは、あなた次第。
ぜひこの作品に挑戦してみてほしい。
不貞腐れて《海苔の佃煮》になってしまった恋人と、戸惑いながらも徐々に佃煮になった彼女に受けいれていく《僕》――衝撃。他に言葉がありません。
普段ならば、物語のあらすじを書かせていただいたり、細部のあれこれに触れて考察を書き散らしたりするのですが、この小説においては、敢えてせずにおきます。
この小説が気になった読者さまには。
取り敢えず理窟は放り投げて、本編を読んで、確かめていただきたいからです。
それにしても、この小説。読みはじめた段階の衝撃が最後まで衰えることなく続くのが、ほんとうに素晴らしいです。
作者さまは頭のなかにどんな大型収納を備えているんだと圧倒されるくらいに多種多様な比喩表現と、奇を衒っているわけではないのに奇抜な描写の数々。
それらが絡みあって、この小説そのものが《哲学》と《文学》の佃煮なのではないかと思わされるほど。
もしや、わたしは佃煮を読んでいたのか。
――ネタバレ含みます。
結局、海苔は海苔のまま、彼に愛され続けるのでしょうか?
わたしには主人公にとって都合のいい形に美羽花がなってしまったように感じました。
異臭こそ放つものの、それまでのようになにも要求しない、大人しいだけの彼女。
彼が彼女とここまで来るまでの道程も、最初はフラれてキープくんだったものの、次第に彼女との性的関係に溺れていく……。
つまり彼女を選んだ理由に、職場のかわいい女の子など必要ないのです。
美羽花は彼を性的に誘うことで彼を繋ぎとめた、それだけのこと。
そして彼は彼女の「気分屋」なところに閉口していた。
それからの海苔の出現。
海苔は文句を言わないし、駄々もこねない。ただ臭い。しかも何故か主人公はその臭いを許容している。
変質してしまった彼女をより強く愛している。
彼にとって彼女の変質はむしろ喜ばしいことだったのかもしれません。
でなければ、最後の場面に至らないと。
美羽花は、彼の性欲のはけ口だったのでしょうか?
女性目線から立った時に、そう思わされてしまいました。
海苔になってまで、男に好きなように扱われるのは勘弁、というのが率直な感想です。
彼と彼女の今後が気になります。
佃煮の味は食べなければ知ることができない。佃煮がある、という情報だけではどんな味か主観的に捉えられない。ただ食べるには勇気が必要で、そのときをいつ迎えるかという話。
彼女が海苔の佃煮になっていた。から始まる衝撃的な一文からはじまる物語。現実とは思えないそれを目の当たりにしてからの主人公の時間の過ごし方が、静かな変質に感じられます。目の前で起こった異常をすぐには受け入れられない。けれど毎日は変わらずに過ぎていく。ふわふわとした毎日は不可思議にも感じますが、最終話でそれまでの流れから一変します。カタルシスというか、最終話で彼がとった行動こそが、ひとつの受容なのかもしれないと、感じた次第です。
おもしろかったです。形容しがたいイメージに包まれて、お気持ちがネバネバしたような気がします。生半可な関係の彼女が、生焼けのシーフードグラタンになってしまうなんて人生はカフカです。
読み始めてすごく疑問だったのは、「生焼けのシーフードグラタンなら焼けばいいのでは?」ということでした。これは暗喩と比喩でないのと両方の意味で言っております。なぜなら彼女は暗喩的な存在になってしまったので、それをどうにかするということはまさに暗喩であり、かつ現実の対処でもあると思うのです。
生焼けの関係が彼女の肢体に具現化したなら、きっちり焼き上げて関係を構築すればよいのではないかと思った次第です。
でも、焼き上げたシーフードグラタンを食べて彼女が蘇るのもおかしな話のような気もするので、やはり今のオチでよかったのだと思います。
色んな解釈ができる話って好きなんです。想像の余地のある終わり方とか、好物です。
この話は、それを冒頭からやってきます。
彼女が海苔の佃煮になってしまうのです。
布団をめくれば糸を引く納豆の泡立ちと、シーフードグラタン風の香り。私はこれを最初◯◯の喩えだと思っていました。しかし、読み終わって暫く経った今では、本当に海苔の佃煮だったのかもしれないと思っています。
その答えは出ません。
謎が謎を呼び、謎のまま完成する。
感覚を刺激する小説。
解釈自由の物語。
原案が奥様とのことで、おそらくこの物語には現実から抽出されたエッセンスもあるのではないかと推測します。そして作者の筆力とセンス。それらが、この小説を実のある幻想に昇華させている。
もし彼女が◯◯として書かれていたら、物語の色は全く違っていたことだろう。
海苔の佃煮。
この絶妙な言葉のチョイス。
これが「彼女が【スパゲッティ・ミートソース】になった」という風に書かれていたら、その味は大きく変わってしまうことでしょう。
言葉の味わいを堪能できる良作短編。
最後のシーンは刺さる人には刺さります(刺さった)。
そしてきっと、次に海苔の佃煮を食べるときには必ず思い出すだろうなぁ……(笑)
ある日、彼女が海苔の佃煮になる。
え? 何を言っているのかって?
小説の話である。そこを否定されると話が進まないので、まあそういうものかと聞いてもらいたい。
そう、彼女が海苔の佃煮になる。
多くの読者はこの奇抜なシチュエーションに、ある有名な海外小説を思い浮かべる事だろう。
私はそれこそ正にこの小説を書いた作者の思惑なのではないかと疑っている。つまりこれはカフカ『変身』に対するアンサーソングであり、また一方で『変身』の対極を描いた作品なのだ。
作者は最後に主人公を通してこう投げ掛ける。
「多分僕は、おそらく僕は、やっぱり僕は……」
この後にはいったいどんな言葉が続くのか。あなたならそこに何を入れる?
私ならこうだ。
――やっぱり僕は彼女を愛している。
一読の価値あり。そして一読した後は二度、三度、繰り返し読むと良い。その度に違った景色が見えてくるだろう。
名作とはそういうものだ。
この作品に用いられる表現としては、「なんじゃこりゃぁ」ですね。
とんでもない物を読んでしまいました。
純文学系レビューの人の頭の中をのぞき込んでみたいです。どうしてそういう言葉が出てくるのか。
めちゃくちゃです。なんたって朝起きるとそこには海苔の佃煮。シーフードグラタンの香り。
なぜか平静を保つ彼。
なんじゃこりゃぁ
でもね、でも。
彼女が変わっても主人公は変わらないんです。変わらない。彼女はあんなに変わったのに。
それってつまり
彼女がどういう存在になっても変わらぬ愛を持っているのでは無いかな?この主人公は。
そして作者も。
という感じなのでは無いでしょうか。
誰かにそう訴えてる感じもするんですよね。
ただまあ、この理解の範疇を超える描写とかはとんでもねえです。難しい。
文学ってモノの方向性とか、人の感性とか、読んで味わってみてください。
おすすめです。
自分の不勉強もありますが、「こういうお話です。読んだらこういう気持ちになりました」という感想を書くことが難しいお話です。
そこにあるのは、生々しい感情と、リアルな日々の生活や関係性。そして、ねばねばの海苔。
男女の関係性、とりわけ主人公が彼女に対して抱く思いが伝わりやすく描写されていて、まるで自分もその体験をしているかのような臨場感がありました。
型にはめにくいもの型にはめることなく、そのまま描写する技術の高さに引き込まれ、一気に読了しておりました。
海苔の佃煮がやけに女性的でなまめかしく感じられました。これも描写力の高さゆえだと思います。
型にはめにくいものの一例は人の感情です。必ずしも「嬉しい」「悲しい」などと明確に分類されるものではない。ごちゃごちゃしていて曖昧だったり、いくつも入り混じっているのが自然なのではないか。それをありのまま描写しているところに、この短編の凄味があるのではないでしょうか。
人間の関係だってそうです。例えば恋人、片思い、友達、セフレ、夫婦、無関係。そんな一言に当てははまらない男女の関係もあるのでは……。傍から見てそれが純粋で健全な好意で結ばれただけの関係性に見えなくても(実際にそうであっても)、周囲の者があれこれ口出しするのは野暮なことなのかも……。その人にとってはそうあるのが当然のことなのかもしれないのだから。そんなことを読んでいて思いました。
謎めいた最後の言葉の解釈といい、読んだ人それぞれがそれぞれに違った感想を抱くことのできる、万華鏡のような小説ではないかと思います。