第32走 飛鳥と椛
そして今、
生温い風が、飛鳥の前髪をさらった。
高層ビルの屋上。そのふちに飛鳥は腰かけていた。すっかり夜の
いや実際に遠くまで来たのだ、と飛鳥は思う。
姉から逃げる為に。
姉を食べない為に――――逃げた。
今までは、ただ追いかけるだけで良かったのに。
そして約束をした。
負けた方は勝った方の言う事をなんでも聞く、と。
――『あたしが勝ったら、妹扱いをやめて』と。
結局、《822事件》のせいで、その約束はうやむやになってしまった。
飛鳥は自身の両脚を見下ろす。
今、自分の両脚は人間のものだ。しかし、飛鳥が命じれば即座に《鬼肢》はその本来の姿を現すだろう。
飛鳥は思い出す。
あの時――《822事件》が起こった日、何があったのか。
覚えているのは轟音と共に崩れた観客席と、宙を舞う
けれど、今ならハッキリと思い出せる。
あの時、あたしは《
そして願いを告げ、《鬼肢》と契約を結び、水無瀬飛鳥は《
ふと、飛鳥は顔をあげる。
バラバラバラ、と。
遠くから、空気を叩き割る音が飛鳥の耳に届いたのだ。
ヘリのローターの音だ。
飛鳥が背後を振り仰ぐと、夜空からヘリコプターが
ほとんど墜落してくるような速度でやって来た《SCT》のヘリは、しかし飛鳥がいる高層ビルの屋上を、やはり猛スピードで通り過ぎていく。
だがその瞬間、ヘリは夜闇でも映える紅い何かを落としていった。
投下された紅い何かは、絹糸のように白い髪をたなびかせて一直線にビルの屋上へと落下――――着弾する。
「――そこカら飛び降りたくらいじゃ、《鬼憑き》ハ死ねんゾ」
ゆらりと立ち上がる、夏に似合わぬ紅葉柄の振り袖と、ぼっくり下駄。
「
「オうよ。――ッて、どうシた? いつもノ元気はドコに落としたンだ?」
鬼無里椛の若く
しかし飛鳥には冗談につき合う気力はなかった。椛の問いを無視して自分の要求だけを口にする。
「ねえ、頼みたいことがあるの」
「なンだ?」
「あたしを閉じ込めて」
それが飛鳥の結論だった。
《鬼憑き》は人を襲い――食べる。まして自分は《鬼肢》を制御しきれていないのだ。それどころか《鬼肢》に操られていたらしい。つまり自分の意思とは無関係に、人を傷つけ殺すかもしれない。いや、既に誰かを殺しているかもしれないのだ。――少なくとも、姉を傷つけたのは飛鳥だと、深山幸は言っていた。
それでも千隼は、飛鳥を助けようとしている。
自分自身を飛鳥に喰わせて《人を喰わない鬼憑き》にしようとしているのだ。
それを避ける為には《SCT》に捕まって、どこかへ閉じ込めてもらうしかない。
「安心したまヘ。無論、そのツもりダ」
飛鳥の考えを読み取ったのか、椛は苦笑しながら承諾する。
そしてガラコロン、と。一歩、飛鳥へ近づきながら椛は「だが」と続けた。
「一つ、聞いテおかなくちャならン事があル」
「……?」
「いやナニ、嫌なラ答えなクてもイイぞ。……ただソの時ハ安全の為に一度、そノ身体をバラバラにさせて貰うガの」
椛の台詞に飛鳥は眉をひそめる。幸の
死なないとは分かっていても、痛いのは嫌だった。
その飛鳥の反応に満足したのか椛はニヤリと、
そして、その問いを口にする。
「水無瀬飛鳥、君ハ何を願ッテ《鬼肢》と契約し、《鬼憑き》となっタ?」
なんだ、そんな事か。
飛鳥は内心ホッとしつつ「お姉に勝ちたい、って」と答えた。
「五年前の全中決勝で走ってた時に、瓦礫が頭かどっかに当たって気絶してさ。それで朦朧としてるうちに《鬼肢》の声が聞こえて、それで思わず『お姉に勝ちたい』って。――そう願ったの」
飛鳥の説明に、椛は「なルほど」と頷く。
これで、もう良いだろう。飛鳥は立ち上がって椛へと歩み寄る。手錠か何かするのかと思って両手を差し出すと、椛は不思議そうに首を傾げた。
「まだ話は終わっテおらんゾ」
「願いの内容は言ったでしょ?」
「ああ。――あと、もう一つあるジャろ?」
「え?」
「しらバっくれるでない。《鬼肢》ト契約するにハ『願い』が必要ダ。そしてそれハ必ず一対となっとル。つまり、一つの《鬼肢》にハ、一つの『願い』が必要なのダ」
言って、椛はコンコンと額の六角ボルトを叩く。
絹糸のような長い前髪の向こうから、
その瞳は『隠し事をするならバラバラにする』と言っているようだった。
どうやら、誤魔化すのは無理らしい。
「――それ、どうしても言わなきゃダメ?」
「あア」
椛に妥協するつもりはないらしい。
確かに、飛鳥は二つの願いをもって右脚と左脚の、二つの《鬼肢》と契約した。先ほど答えた『姉に勝ちたい』という願いは《左脚の鬼肢》に願ったもの。
そして《右脚の鬼肢》に願ったのは――
「お――、」
「オ?」
椛に先を促される。
飛鳥の脳内で瞬間的に理性が沸騰して、真っ赤になった顔から蒸発していった。
もう、どうにでもなれ。
「お姉と…………………………………………………………恋人になりたい、って」
沈黙が流れた。
やけに風の音がハッキリと聞こえる。
夏とはいえ高層ビルの屋上に吹きすさぶ風は冷たい。なのに、どれだけその風にさらされても顔の火照りはなくならなかった。――ああ、目の前にいるのが椛でなければ、ここまで恥ずかしくはなかった。他の警官であれば『飛鳥自身が千隼へ取ってきた態度』を見られていないからだ。椛には『素直になれない自分』を散々見せつけてしまっている。
早く何か言って欲しい。この沈黙に我慢できない。
耐えきれなくなった飛鳥が「何か言いなさいよ」と怒鳴り散らす直前、
「あっはははははははははははははははははははははははははははははははッ!」
それを制するように、笑い声がビルの屋上に響き渡った。
腹を抱えて笑っているのは椛だ。八重歯がハッキリと見えるほど大きく口を開けて、
流石にこれには飛鳥もムッとして、
「ちょ――、そんな笑うことないでしょッ!?」
「いやいヤ、おかしくてオかしくて仕方がないワ。それコソ、涙が出るほどにナ」
言って目尻を拭いながら、椛はまだ笑い続けている。
チクショウ、なんでこんなチビに。
「ほら! 言ったよ! 言ったじゃんか! 早くあたしを逮捕しなさいよッ!!」
「はいはい、すまなかったネ。――渡辺、いいゾ」
椛は振袖の中から無線機を取りだしてヘリを呼ぶ。ほどなくして、何処かへ消えていたヘリが舞い戻ってきた。吹きすさぶビル風を、それ以上の風で押さえつけるようにしてヘリは高層ビルの屋上へと着陸する。
途端、中から溢れてきた黒い野戦服の男たちが飛鳥を取り囲む。彼らは飛鳥に拳銃を向けてはいるものの、それ以上は何もしてこない。
飛鳥は不思議に思い、
「手錠は?」
「逮捕にハ色々と手順があるからネ。今ハまだ必要ナイ」
そう答えて椛は、さっさとヘリの中へ上がり込んでしまう。
そして振り返ると、飛鳥の方へ手を差し出した。
「どうゾ、お嬢様」
「……なんかテンションおかしくない?」
飛鳥は促されるまま椛の手を取り、怪訝そうな目を椛に向ける。が、椛は「そんなことハないゾ」と笑うだけ。どれだけ目を凝らしても、顔半分を覆う前髪のせいで椛の真意は読み取れなかった。まあ、何だっていいか。あとは《SCT》へ行くだけなのだ。そう飛鳥は深く考えるのを止める。
「よし、行け」
全員がヘリへ搭乗した事を確認し、渡辺と呼ばれた《SCT》の隊員がパイロットへ命令。徐々に回転数を上げるローターの音が、耳を聾していく。そして音が頂点に達した時、胃がせり上がるような浮揚感と共にヘリは高層ビルの屋上を飛び立った。「旅客機とハ違うからの、揺れるゾ」飛鳥の耳に大声で叫んだ椛の言う通り、ヘリは自由自在に進路を変え、そのたびに中にいる飛鳥は椅子にしがみつかなくてはならなかった。まるで巨大な手に襟首を掴まれて左右に揺すられているようだ。他の《SCT》隊員も、シートベルトをつけて手すりに掴まっている。
ふと、飛鳥は疑問に思って横に座る椛をつつく。
小首を傾げてこちらを向いた椛に飛鳥は問いかけようと口を開きかける。――が、そこで飛鳥の意図を察した椛が、先手を打って飛鳥にインカムを渡してきた。
口の動きだけで「これを使え」と飛鳥へ言う。
「――こノ方が聞こえルじゃろ?」
椛の声がインカムを通じて飛鳥の耳へ届く。「ありがとう」と飛鳥が答えると、椛はグッと親指を立てた。ちゃんとこちらの声も聞こえているようだ。それを確かめてから、飛鳥は改めて疑問を口にした。
「銃とか構えてなくていいの? あたし《鬼憑き》だよ?」
「飛んデるヘリの中で銃なんゾ危なくて使えるカ。それニ、何かあれば
椛は再び、額の六角ボルトを叩いて見せる。
ふと、また疑問が湧き起こった。
「あなたの《鬼肢》って肋骨じゃないの? ヘリの中じゃ使えないんじゃ……」
「アア、それハ違う」
椛は少し悩む素振りを見せたが、結局は答えてくれた。
「
「そうなの? でもあれは……」
幸を倒した時、椛は脇腹から鎌状の《鬼肢》を出現させていた。その数は二十四本。確かそれは人間の肋骨の数と同じはずだった。だから椛の《鬼肢》は肋骨だと思っていたのだが。
「そう、あれ自体ハ《肋骨の鬼肢》だ」
「どういう事?」
「アー、つまりノう」
椛は言いずらそうに目線を逸らしポリポリと、つきたての餅のような頬を掻いて、
「《脳髄の鬼肢》は、喰った他の《鬼憑き》ノ能力を使えるのサ」
椛は口早に《脳髄の鬼肢》の能力を説明した。《鬼肢》はそれぞれの部位の応じて様々な能力を持つ。例えば《脚》であれば驚異的な跳躍力であるし、《耳》や《目》などの感覚器官であれば、物理法則を無視した嗅覚や視覚である。
そして《脳髄》の場合は『思考の高速化』――椛の驚異的な身体能力は、思考を高速化する事によって相対的に現実の時間の流れを遅くした結果だと言う。思考が百倍の速さならば、現実の時間では一秒に満たない一瞬でも、椛には1分以上かけてゆっくり対応する事が出来る。いくら飛鳥が音速の蹴りを放とうとも、椛は
そしてもう一つ、《脳髄の鬼肢》には特異な能力がある、と椛は付け加えた。
それは『運営』という能力だという。
「脳髄ってのハ、人体を管理運営する臓器ダ。手足を動かすだけジャない。呼吸だっテ鼓動だって無意識下デ運営がなされていル。無論、実際にハ脊髄や臓器そのものが持つ機能によッテ生命活動を起こしてイる。――だがやハり《脳髄》が指示を出さねバ人体は正しく運営されナイ。そレ故に、食べた《鬼肢》を好きなヨウに『運営』できるわけジャ」
まあ《鬼肢》に限らないがの、と椛は付け加える。どうやら自分の肉体も『運営』によって能力を底上げしているらしい。
飛鳥は「ふぅん」とその辺りを聞き流し、
「じゃあ《脳髄の鬼肢》は他の《鬼肢》より偉いってこと?」
「イヤ単に役割の違いじゃガ――まア、分かりやすいナラそれでも良かろ」
どうせ雑談だ。と、椛は肩をすくめた。
飛鳥は少しムッとする。なんだかバカにされているような気がしたのだ。
だからだろうか。
冷静であれば絶対に口にしない問いを口にした。
「それで、食べた《肋骨の鬼憑き》って誰だったの?」
「――、」
椛が息を呑んだのが分かった。
そこでようやく飛鳥は、自身がとんでもないミスを犯した事に気づく。
そう、鬼無里椛は《人を喰わない鬼憑き》なのだ。
幸は『飛鳥に千隼を食べさせれば《人を喰わない鬼憑き》になる』と言っていた。だから自分は千隼から逃げた。千隼が自身を犠牲に妹を救おうとしないように。
だが、幸の言葉には続きがあったはずだ。
その言葉を聞いた途端に、椛は
そしてそれは、
――椛ちゃんだってそうやって――
「ごめ――」
「いいンだ」
慌てて謝ろうとした飛鳥を、椛は手を上げて制した。
「……喰ったのは、肉親だよ」
椛は既に飛鳥を見ていない。
正面に顔を向けたまま、絞り出すように呟く。
「母親を、食べた」
それから椛はひと言も話そうとしなかった。
あまりの気まずさに、飛鳥は外へ視線を向けたまま椛に気づかないフリをした。自分の問いかけが原因とはいえ、目的地に辿りつくまでの数十分が、とてつもなく長く感じてしまう。だから、浮揚感と共にヘリが降下し始めていることに気づいた時は心底ホッとしてしまった。ようやくこの空間から逃れられる。
そこでようやく、飛鳥は自分に待ち受ける運命を思い出した。
《SCT》に捕まった以上、《鬼憑き》は《研究病院》に運ばれて《鬼憑き》が治るまでの間、入院することになっている。もちろんそれは建前で《研究病院》の地下に閉じ込められるのだ。少なくとも、千隼からはそう聞かされていた。
つまり、あたしは一生病院暮らしってわけか。
飛鳥の口元に諦観の笑みが浮かぶ。《鬼憑き》は不老不死だとも聞く。という事は一生どころか永遠に閉じ込められるのだろう。少なくとも《鬼憑き》の治療法が見つからない限り。
「水無瀬飛鳥、降りろ」
ヘリが着陸すると、《SCT》隊員たちは素早く外へと出て銃を構えた。その内の一人、渡辺と呼ばれていた隊員が、口を開こうとしない椛に代わって飛鳥を外へ手招きする。
それに従って、飛鳥はヘリの外へと降り立った。
どれ《研究病院》というのはどんな所だ――と、飛鳥は周囲へ視線を飛ばす。
だが、周囲は
そこでようやく飛鳥は、自分がすり鉢状の建物の中心に居るのだと気づいた。
少なくとも、病院という風情ではない。
「鬼無里さん――」
ここはどこ?
そう背後へ問いかけようとした飛鳥は、唐突に眩い光に照らされた。暗闇に目が慣れていたせいで、あっけなく視界が白く染め上げられる。目を閉じても、
飛鳥は光になれた瞳で、周囲を確認する。
「え、」
とてつもなく、見覚えのある場所だった。
つい二週間ほど前にも来たばかり。
その前は、さらに五年ほど遡ることになる。
だが、この光景は忘れようがない。手入れの行き届いた天然芝のグラウンドに、それを囲む陸上トラック。すり鉢状の建物にはびっしりと観覧席が並んでいる。バックスタンドには夜間照明が高くそびえ立ち、グラウンドの中央に立ちすくむ飛鳥を照らし出していた。
つまり、ここは、
「――国立、競技場?」
どうして?
あたしは《研究病院》に連れてかれるんじゃ。
椛へ理由を問い質そうと、飛鳥は背後のヘリへ振り返る。しかし、既にヘリの中には誰も残っていなかった。
そして、
「待たせたな、飛鳥――」
とてつもなく、聞き覚えのある声だった。
恐る恐る、飛鳥は振り返る。
夜間照明の光をバックにして歩み寄ってくる人影があった。
180センチはあろうかという長身。腰まで届く長い黒髪は薄汚れた布でポニーテールに。何故かその身を陸上部時代のユニフォームで包み、ランニングコートを肩で羽織っている。杖をついているのは右脚が義足だからだが、弱々しさは決して感じさせない。むしろ義足を誇るかのように、
飛鳥の知る限り、そんな人物は世界に一人だけ。
その人物は珍しく、わずかに仏頂面を崩して、柔らかく微笑んだ。
「――お姉ちゃんが来たぞ」
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