幕間
Criminal Side
静かな暗闇の中を、あたしはひとりきりで歩いていた。
やはりあの刑事はあたしのことを疑っているのだろうか。
いや、たとえそうだとしても確たる証拠なんて見つけられるはずもない。
ここのところあたしの心は不安と余裕の狭間で波のように揺れ続けていた。
「おかえりなさい、川原さん」
はっとして立ち止まると、暗闇の中からあの刑事が姿を現した。
どうやらあたしの部屋――102号室の前でずっと待っていたらしい。
「いい加減アポなしで訪ねてくるのはやめにしてもらえませんか。はっきり言って迷惑です」
「申し訳ありません。しかし、こういうことはおそらくこれで最後になるかと思いますよ」
「それは首飾り売りを逮捕したという意味ですか?」
「そうではありません。しかし、山辺清乃さんを殺害した犯人ならば、間もなく逮捕されます」
冷ややかな声でそう言うと、刑事は細めた目であたしを見据えた。
「あたしが犯人だと考えているなら、はっきりそうだと仰ってくれませんか?」
「そうですね――私は川原さんこそが山辺さん殺害の犯人だと考えています」
「本当に言ったよこの人」
この刑事のペースに乗るのは危険だ。
「そう言ってゆさぶりをかけるのが、刑事さんのやり方なんでしょうけど、おあいにく様。あたしは清乃を殺してなんかいない」
あたしは大げさにため息をついて、続けた。
「それとも、あたしが犯人だという具体的な根拠でも見つかったんですか?」
刑事はあたしの挑発的な問いに対して直接答えようとはせず、しばらく腕を組んで考え込むような素振りを見せた。
「初めに妙だと思ったのは、山辺さんのズボンにスマートフォンが入っていたことです。それもお尻のポケットに」
「はぁ」
刑事の意図がわからずぼんやりした声で応じると、彼女はバッグからスマートフォンを取り出して、自分のスーツパンツのポケットに入れてみせる。
「ただでさえ体のラインに合わせて生地が伸びるところですからね。お尻のポケットにスマートフォンのような大きなものを入れて歩くということを、女性はあまりしないんですよ」
「あたしは携帯電話を持っていないのでよくわかりませんが、一般的にはそうかも知れませんね」
「いえ。山辺さんの場合もそうだったと思います。男性で習慣的にスマートフォンをズボンに入れている人は少なくありませんが、そういう人のスマートフォンはどうしてもディスプレイに細かいホコリや傷がついてしまうものなんです。しかし、山辺さんのスマートフォンにはホコリ一つついていませんでした」
女性はズボンの尻ポケットにスマートフォンを入れないという見解に対し、清乃がそうだったとは限らないという風に漠そうとしたのだが、きっぱり否定されてしまった。ここは自説に拘るよりも、素直に刑事の考えを認めた方が良いかも知れない。
「なるほど。そういうことなら刑事さんの言う通りかもしれませんね」
「ありがとうございます。では、山辺さんは普段からズボンの尻ポケットにスマートフォンを入れるようなことはなかったとして、あの日に限って入れていたのは何故だと思いますか?」
「ええっと……歩きながらスマートフォンを触っていて、誰か――それこそ事件の犯人に声を掛けられたとかで、咄嗟に入れたというのはどうですか?」
「その場合、バッグにしまうか、そうでなくともジャケットのポケットにしまうのではないでしょうか。咄嗟にしまうのに、ズボンの尻ポケットというのはちょっと考えにくい」
わざわざ自分のスマートフォンをバッグや上着のポケットに入れるところを見せながら反論するのがうっとうしい。
「スマートフォンを山辺さんのズボンのポケットに入れたのは犯人です。犯人は世の女性がズボンのポケットにものを入れないということを知らなかったんですよ」
そしてまた、驚くほど的確なその推理も。
「しかし、それだけでは不充分です」
「不充分?」
「ええ。先ほど私は咄嗟にしまうのに、ズボンの尻ポケットというのはちょっと考えにくいと言いました。もちろんそれは山辺さんがスマートフォンをしまうことを想定しての発言ですが、同じことが犯人にも言えるのです」
「じゃあやっぱり犯人じゃなくて、清乃本人がズボンの尻ポケットに入れたってことなんじゃないですか?」
刑事は無言で首を横に振った。
「もしも犯人が山辺さんを殺害したのが屋外ではなく、山辺さんの部屋だったならば――その時に山辺さんがジャケットを脱いでいたならば――スマートフォンがバックから出され充電器にでも繋がっていたならば――犯人にはバッグや上着のポケットに入れるよりもズボンに入れる方が自然な行為だと考える理由があるとは思いませんか?」
あたしは殺害当時のことを思い出して、つい顔を歪めてしまう。刑事の言うとおり、あたしが302号室を訪れたとき、清乃のスマートフォンは充電器に繋がっていた。
清乃が帰宅途中に首飾り売りに襲われたように見せかける以上、スマートフォンをそのままにしておくことはできない。そう考えて公園まで持っていき、ズボンのポケットに入れたのだが、まさかそれが刑事に疑われるきっかけになってしまうとは。
「待ってください。刑事さんは、女性がズボンのポケットにものを入れないということをわかってない人間を疑っているんですよね?」
「まぁ、そうなります」
「だったら、まず疑うべきは男性なのでは?」
「はい。実は最初のうち私も、山辺さんと同じアパートに住む男性が犯人なのではないかと考えていました。しかし、携帯電話を持っておらず、衣服のポケットに物を入れることにあまり頓着のない人であれば、女性であっても同じような間違いを犯すこともあるのではないか、と思った次第です」
「白衣から手帳を取り出したのを見て、あたしを疑ったということですか?」
「それだけではありませんが、それもきっかけのひとつではあります」
いけしゃあしゃあと言う。きっとこの刑事の心臓は厚い毛で覆われているに違いない。
「……同じアパートの住人が犯人だと考えたのはどうしてですか?」
「死亡推定時刻から判断するに、犯人は山辺さんが帰宅してすぐに302号室を訪れたと考えられます。一方で、犯人らしき人物が山辺さんと連絡を取り合った形跡は見つかっていません。連絡を取り合うことなく、山辺さんの帰宅を見計らって彼女の部屋を訪れることができるのは、第一に同じアパートの住人です」
「かも知れませんけど、それだけであたしが犯人だと決めつけるのはいかがなものかと思いますよ」
「まったくです。だから私もずっと悩んでいたんですよ。そして、悩みぬいた末に再度、新たな疑問に辿り着きました」
「また新たな疑問ですか」
「ええ。犯人は山辺さんの帰宅直後に彼女の部屋を訪れたと考えられますが、それでも山辺さんがスマートフォンを充電器に繋げるくらいの時間的猶予はあったわけです。だとしたら、買ってきた商品を片付けるくらいはしたのではないでしょうか?」
「うーん、あたしはそのまま放置しちゃうこともありますけど」
「要冷蔵、要冷凍の商品も、ですか?」
淡々とした刑事の声が、やけに透き通って辺りに響き渡る。
「シリアル一袋、ヨーグルト一個、鶏胸肉一パック、長ネギ一本、冷凍うどん六個いり一袋、ニンジン一本、卵十個入り一パック――シリアルや野菜は大目に見るとしても、ヨーグルトと鶏むね肉、卵は冷蔵庫に入れるでしょう。もちろん冷凍うどんは冷凍庫に」
やはり刑事は理解している。あの日あの時あの部屋であたしが何を考え、どう動いたのかを。
「山辺さんが冷蔵庫にしまった商品の中で。卵だけは他と大きく異なる特徴があります。すなわち、冷蔵庫内の専用ホルダーに移し替えるためにパックを開けなければならないんです」
「……事件現場で発見された卵はどういう状態だったんですか?」
「パックは未開封のままで中の卵も無事でした」
知っている。清乃が帰宅中に襲われたとより強く印象づけるため、パックを開けることや卵を地面に叩きつけて割ることも考えたが、結局はただビニール袋の中に卵のパックを入れるということしかしなかったのだ。卵というあたしのウイークポイントをわざわざ目立たせることはないと思ったからだった。
「山辺さんが一度帰宅していたとするなら、どうして卵のパックは未開封のままだったのか――その疑問にたどり着けば、答えを出すのは簡単でした。犯人はどこかで卵のパックを新たに買い直して、ビニール袋の中に入れたんですよ。もちろん、山辺さんが買ってきた卵は全て冷蔵庫から回収して処分したのでしょう。例えばそう、翌日に燃えるゴミと一緒に出すとかして」
そう。刑事と初めて会った日、あたしは卵の殻を燃えるゴミと一緒に出した。そして、そのことに刑事も気がついていたのだ!
「全部刑事さんの推測じゃないですか。あたしは具体的な根拠でも見つかったんですかと聞いているんですが」
「答えにたどり着けば、根拠を見つけるのは簡単でした。我々は、五十海市内のスーパー、コンビニエンスストアの聞き込みを行い、あの晩川原さんが、公共料金を支払いに利用したコンビニエンスストアとは別にもう一件、市内のコンビニエンスストアに立ち寄って、山辺さんが買ったものと同じブランドの卵を買った事実を突き止めました」
あたしの体がぐらりと揺れた。気づけば膝が小刻みに震えていた。
「このことを踏まえて、我々は現場近くで発見された卵のパックをもう一度よく調べてみることにしました。その結果、奇妙な事実が判明しました。卵のパックに山辺さんの指紋が――」
「ついていなかったんですか? そんなまさか」
言いかけてあたしははっと口を押さえた。これでは自分が卵のパックに細工をした白状しているようなものではないか。
「いえ。山辺さんの指紋はあったんですよ」
「な、なら問題ないじゃないですか」
「問題は、卵のパックに山辺さんの指紋が付着している一方で、他の誰の指紋も付着していなかったということなんです。まるで布か何かで綺麗に拭き取ったように。こんなことをする理由はひとつしか考えられません。あの卵のパックは山辺さんが買った物ではなかった。犯人はどこか別の場所で卵のパックを調達し、山辺さんの遺体に触れさせて指紋をつけることで、山辺さんが買った物であるかのように見せかけたのだと」
刑事の狙いは誘導尋問ではなかった。彼女の狙いはあくまで推理力であたしの心を折ることだった。
「以上を踏まえて伺います。川原さんがあの晩にコンビニエンスストアで卵のパックを買った理由は何故ですか?」
急に卵を食べたくなったから。一個目玉焼きにして食べてみたんだけど、変な味だったんで全部捨てました。そんな言い訳を口にしようとして、やめる。もう、この辺りが潮時だと思ったのだ。
「こっちもひとつ聞いて良いですか?」
「私に答えられることなら」
「事件の翌日、あたしは燃えるゴミと一緒に大量の卵の殻を捨てました。そのことはあなたも気づいていたでしょう。あれは調べたんですか?」
「調べたかったんですが、焼却処分された後でした」
「あの日の内に拾っておけば良かったのに」
「令状もなしに、そういうのはちょっと」
なるほど。それがこの刑事のフェアプレー精神というわけか。
「……刑事さんの勝ちですよ。認めます。あたしが清乃を殺しました」
「私は勝者なんかじゃありませんよ。ただ、人を殺し、それを隠そうとしたあなたが初めから負けていたというだけの話です」
刑事は淡々と言う。容赦のない態度だったが、かえってあたしはその態度に救われたような気がした……。
「川原鮎、あなたを殺人の容疑で逮捕します」
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