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誠心院

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
誠心院
所在地 京都府京都市中京区新京極通六角下ル中筋町487
位置 北緯35度0分24.2秒 東経135度46分3.1秒 / 北緯35.006722度 東経135.767528度 / 35.006722; 135.767528座標: 北緯35度0分24.2秒 東経135度46分3.1秒 / 北緯35.006722度 東経135.767528度 / 35.006722; 135.767528
山号 華嶽山
宗派 真言宗泉涌寺派
本尊 阿弥陀如来
開山 専意法尼(和泉式部
開基 藤原道長
正式名 華嶽山 東北寺 誠心院
別称 和泉式部寺
公式サイト [1]
法人番号 6130005002213 ウィキデータを編集
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誠心院(せいしんいん)は、京都市中京区にある真言宗泉涌寺派寺院山号は華嶽山。本尊阿弥陀如来和泉式部ゆかりの寺院で、通称「和泉式部寺」と呼ばれている。

歴史

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「誓願寺縁起」によると、万寿2年(1025年)に和泉式部は娘である小式部内侍を失った。そして、和泉式部は娘の菩提を弔いつつ自らの往生も考えるようになり、播磨国書写山圓教寺性空上人を訪ねることとした。そこで女人往生のすべを乞い、京都に戻って性空上人の教えをもとに誓願寺に入ると、本尊の阿弥陀如来に帰依して出家し、専意法尼という戒名を授かった、という。

次に当寺の寺伝によると、万寿4年(1027年)に専意法尼(和泉式部)が長年仕えてきた上東門院(藤原彰子)が、父の藤原道長に専意法尼のために一宇を建立すように勧めると、道長は法成寺の塔頭で建立中の東北院の一角(現・京都御所の東、荒神口辺り)にお堂・小御堂を建立して「東北院誠心院(じょうしんいん)」と名付け、専意法尼を初代住職とさせた、これが誠心院の起こりであるという。

鎌倉時代には現在の小川通一条上ル誓願寺の南に移転し、この頃に泉涌寺の末寺となったようである。

その後、天正年間(1573年 - 1592年)に豊臣秀吉の命を受けた山口甚介秀康により、現在地である寺町六角下ルに移転している。

元治元年(1864年)7月に禁門の変が起きると、京都の町はどんどん焼けで大火災となり、当寺も大きな被害を受けている。

1872年明治5年)から始まった京都府知事槇村正直による新京極通の整備で寺地を公収され、通りを隔てて境内地は二分された。

1910年(明治43年)、近隣で火災が発生して蔵を残してすべてが焼失するが、1919年大正8年)に本堂が再建されている。

もともと当寺の読みは「誠心院(じょうしんいん)」であったが、太平洋戦争後からは「せいしんいん」と呼ばれるようになった。

毎年3月21日には和泉式部忌の法要が営まれる。

境内

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  • 本堂 - 小御堂(こみどう)ともいう。1919年大正8年)再建。本尊・阿弥陀如来坐像、和泉式部像、藤原道長像などを祀っている。
  • 庫裏
  • 和泉式部の墓 - 宝篋印塔
  • 山口甚介秀康の墓 - 誠心院の移築を担当した人物。宇治田原城の城主。
  • 山口一族の墓
  • 池西言水の墓 - 江戸時代中期の俳人。
  • 阿弥陀如来・二十五菩薩石像 - 山口甚介により建立された。
  • 百八観音 - 永代供養墓でもある。
  • 神変大菩薩(役行者)像
  • 山門 - 1997年平成9年)末に再建。

参考文献

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  • 誠心院由緒

関連項目

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