藤原継業
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(藤原緒業から転送)
時代 | 平安時代初期 |
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生誕 | 宝亀10年(779年)[1] |
死没 | 承和9年7月5日(842年8月14日) |
別名 | 嗣業、緒業 |
官位 | 従三位、伊予権守 |
主君 | 桓武天皇→平城天皇→嵯峨天皇→仁明天皇 |
氏族 | 藤原式家 |
父母 | 父:藤原百川、母:伊勢大津の娘 |
兄弟 | 旅子、帯子、緒嗣、継業 |
藤原 継業(ふじわら の つぐなり)は、平安時代初期の公卿。名は嗣業[2]または緒業[3]とも表記する。藤原式家、参議・藤原百川の三男。官位は従三位・伊予権守。淳和天皇の外叔父。
経歴
[編集]父・百川は光仁・桓武両天皇を皇嗣に擁立した功臣であったため、兄・緒嗣と共に桓武天皇に信任されて順調に昇進する。延暦15年(796年)内舎人より抜擢され従五位下・侍従に叙任される。その後、侍従に加えて大学頭・左兵衛佐を兼帯し、延暦23年(804年)には正五位上に昇叙されている。延暦25年(806年)3月に桓武天皇が崩御すると、4月には兄・緒嗣と共に、桓武天皇より賜与された200戸の封戸を朝廷に返上しようとしたが、この封戸は桓武天皇が特別に賞して賜与したものであるとして、皇太子・安殿親王(後の平城天皇)は返上を許可しなかった[2]。
平城朝においては、兵部大輔・左京大夫・大和守を歴任し、大同3年(808年)従四位下に叙せられる。嵯峨朝に入り、大同5年(810年)4月に従四位上に叙せられると、薬子の変後に近江守に任ぜられる。のち兵部大輔・神祇伯・伊予権守を歴任するが、伊予権守の任を終えて帰京後は朝廷への出仕をしなかった。
弘仁14年(823年)淳和天皇が即位するとその外戚として正四位下に、天長3年(826年)には従三位に昇叙され公卿に列す。その後も官職に就く事はなく、承和9年(842年)7月5日に高橋里の邸宅で没した。享年64。最終官位は散位従三位。
人物
[編集]性格は素直で、容姿や身のこなしが優れていた。また、射を好み、琴歌も得意としていた。晩年は邸宅について顧みる事がなく、門戸の修理もしなかったという[4]。
官歴
[編集]『六国史』による。
- 時期不詳:正六位上。内舎人
- 延暦15年(796年) 日付不詳:従五位下。日付不詳:侍従。日付不詳:兼常陸介
- 時期不詳:従五位上。兼信濃介
- 延暦18年(799年) 4月11日:大学頭
- 時期不詳:左兵衛佐。兼信濃守
- 時期不詳:正五位下
- 延暦23年(804年) 正月11日:正五位上
- 延暦25年(806年) 正月28日:兼山城守。4月14日:見侍従左兵衛佐。5月1日:兵部大輔
- 大同3年(808年) 11月17日:従四位下。11月27日:左京大夫兼大和守、侍従如故
- 時期不詳:右馬頭
- 大同5年(810年) 4月19日:従四位上。日付不詳:近江守。10月2日:兵部大輔、近江守如故
- 弘仁2年(811年) 5月14日:神祇伯、侍従近江守如故
- 時期不詳:伊予権守
- 弘仁14年(823年) 4月27日:正四位下
- 天長3年(826年) 正月7日:従三位
- 承和7年(840年) 5月8日:山作司(淳和上皇崩御)
- 承和9年(842年) 7月5日:薨去(散位従三位)