華頂宮博経親王
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華頂宮博経親王 | |
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華頂宮 | |
華頂宮博経親王 | |
続柄 | |
身位 | 親王 |
敬称 | 殿下 |
出生 |
1851年4月19日 |
死去 |
1876年5月24日(25歳没) |
埋葬 | 豊島岡墓地 |
配偶者 | 博経親王妃郁子 |
子女 | 華頂宮博厚親王 |
父親 | 伏見宮邦家親王 |
母親 | 堀内信子 |
役職 |
弾正尹 議定 会計事務総督 海軍少将 |
華頂宮博経親王(かちょうのみや ひろつねしんのう、嘉永4年3月18日(1851年4月19日) - 明治9年(1876年)5月24日は、日本の皇族、海軍軍人。官位は議定会計事務総督、海軍少将。徳川家茂の猶子。伏見宮邦家親王第12王子、母は堀内信子。宮家華頂宮創設者。
経歴
[編集]幼少時の称号は隆宮。嘉永5年(1852年)に出家。知恩院門跡となり、知恩院を相続。尊秀と号する。万延元年(1860年)に孝明天皇の猶子となり、同日に徳川家茂の猶子となる。万延2年(1861年)に博経の名を賜り、その翌日に親王宣下を受ける。翌月に落飾し、知恩院門跡・尊秀入道親王となる。
慶応4年(1868年)、勅命により復飾し博経親王に復名。翌月に宮家を創設し、宮号を華頂宮とした。宮号は、知恩院の山号「華頂山」にちなんでいる。その後は、和学校御用掛・弾正尹・議定・会計事務総督を歴任。
1870年(明治3年)よりブルックリンに留学。1872年(明治5年)から東隆彦の名でアナポリスの海軍兵学校に入学し、海軍について学んだ[1]。練習艦での訓練中の負傷後に肺病を患い、翌1873年に病気帰国。
帰国後に南部郁子と結婚し、1875年(明治8年)に第一王子の博厚王が誕生。同年、勲一等旭日大綬章に叙せられ、翌1876年(明治9年)に海軍少将となるも、同年5月24日に薨去。25歳没。
経歴
[編集]嘉永4年(1851年)3月18日 | 誕生 |
嘉永5年(1852年)10月12日 | 知恩院相続 |
万延元年(1860年)8月27日 | 孝明天皇猶子 |
万延元年(1860年) | 徳川家茂猶子 |
万延元年(1860年)11月29日 | 親王宣下・名を博経とする |
万延元年(1860年)12月29日 | 落飾・知恩院門跡・法名尊秀入道親王 |
慶応4年(1868年)1月7日 | 復飾・復名博経親王 |
慶応4年(1868年)1月10日 | 華頂宮家創設 |
明治元年(1868年)9月18日 | 元服 |
明治3年(1870年)6月 | アメリカ留学 |
明治5年(1872年)8月 | 病気帰国 |
明治9年(1876年)5月13日 | 任海軍少将 |
明治9年(1876年)5月24日 | 薨去 |
血縁
[編集]博経親王は南部利剛の長女・郁子を妃とし、一男(博厚親王)を儲けた。
- 父:伏見宮邦家親王
- 母:堀内信子
- 兄弟:晃親王 - 嘉言親王 - 譲仁親王 - 朝彦親王 - 男子 - 貞教親王 - 喜久宮 - 彰仁親王 - 能久親王 - 誠宮 - 愛宮 - 博経親王 - 智成親王 - 貞愛親王 - 清棲家教 - 載仁親王 - 依仁親王(女子省略)
- 妃:南部郁子
- 子:華頂宮博厚親王(第一王子)
脚注
[編集]- ^ Annual register of the United States Naval Academy. Annapolis, MdU.S. Government Printing Office 1873
外部リンク
[編集]- 『親王・諸王略傳』博 [博經] - ウェイバックマシン(2019年1月1日アーカイブ分)[リンク切れ]