箕冠城
箕冠城 (新潟県) | |
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箕冠城本丸跡 | |
城郭構造 | 山城 |
築城主 | 大熊氏? |
主な城主 | 大熊朝秀 |
遺構 | 曲輪跡、堀切・土塁 |
指定文化財 | 市の史跡 |
登録文化財 | なし |
地図 |
箕冠城(みかぶりじょう)は、越後国(現在の新潟県上越市板倉区)にあった日本の城。1974年8月1日に旧中頸城郡板倉町の史跡に指定された[1]。上越市に合併後は市の史跡に指定されている。
歴史
[編集]新潟県上越市板倉区にあった山城。築城時期は不明だが、越後国守護上杉氏の重臣大熊氏が居城とした城である。鳥坂城(妙高市)とは山ひとつ隔てた標高242m、比高約160mの独立峰につくられた城で、東西約400m、南北約300mの城域をもつ。山の東側には大熊川、西側には小熊川が流れ、外堀の役目を果たしていた。築城年代はわかっていないが、15世紀末に関東管領上杉氏の所領を管理するために越後(新潟県)に赴いた大熊氏により築城されたと考えられている。城主の大熊氏は戦国時代、重臣として越後守護上杉氏に仕え、その後、長尾景虎(上杉謙信)に仕えた。大熊氏は家中において段銭方などの要職を務めた。1553年(天文22)、節黒城(十日町市)の上野家成と千手城(十日町市)の下平吉長とが領地争いを起こした。上野家成は栃尾城主で景虎(謙信)の重臣本庄実乃を頼り、下平吉長は大熊朝秀を頼って争いは混迷。朝秀は長尾氏譜代の与板城主の直江実綱(景綱)や、本庄実乃と対立した。国主の景虎は長尾政景、北条高広の謀反に続き、こうした領内の混乱が起こったことで、突如、領国を放棄して出家を宣言する。
朝秀は弘治2年(1556年)に景虎が出家引退を表明したことを受けて、武田晴信(武田信玄)に通じ、箕冠城を捨て越中(富山県)に移り、武田氏と呼応して越後に侵攻する機会をうかがった。しかし、景虎が国主に復帰したことで越後侵攻をあきらめ信濃(長野県)に移り、1563年(永禄6)に武田家に仕官、山県昌景の与力を経て信玄の直臣となり、足軽大将として取り立てられた。勝頼の代には遠江国小山城代に任じられた。織田氏の攻勢を受け、多くの家臣が寝返る中で武田勝頼に忠義を尽くし、1582年(天正10)の天目山の戦いで勝頼と運命を共にした。朝秀の出奔後の箕冠城については明らかではない。間もなく廃城になったとも、信濃口を守備する上杉家の番城として1598年(慶長3)の上杉景勝の会津転封まで存続したとも考えられている。現在、城跡には曲輪(くるわ)、土塁、虎口、堀切、横堀、水の手などの遺構が残っている。
交通
[編集]えちごトキめき鉄道新井駅からバスで23分、上越市板倉区菰立で下車、徒歩約15分。
参考文献
[編集]- 『上越市史叢書9 上越の城』 (新潟県上越市、2004)
脚注
[編集]- ^ “板倉区の文化財 : 箕冠城跡”. 板倉区総合事務所 (2015年1月14日). 2018年8月19日閲覧。