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浅川陣屋

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浅川陣屋(あさかわじんや)は、陸奥国石川郡浅川村に置かれた越後高田藩浅川領の奉行所・幕府領の代官所である。

概要

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高田藩領期

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  • 寛保元年(1741年)11月、高田藩主松平定賢陸奥国白河へ、白河藩主松平明矩播磨国姫路へ、姫路藩主榊原政純越後国高田へ転封する三方領地替えがあり、それに伴い陸奥国白川田村石川岩瀬の四郡の一部が高田藩の分領(浅川領)となった。
    新しい高田藩の領知は15万石であったが、そのうち半数以上の8万4千石余りが高田から遠く離れた浅川領であった。
  • 寛保2年(1742年)3月、石川郡浅川村本町東裏に陣屋を設置。
    高田藩の役人は陣屋をおく予定であった石川町に滞在していたが、川の氾濫によって仮宅が浸水し通行も不自由になったので、この地では不適と判断し、陣屋の設置を取りやめた。代わりに、設置費用を負担する者が現れた浅川村に陣屋を置くことにし、3年後の延享2年(1745年)に落成した。
  • 宝暦元年(1751年)11月、大火に見舞われ陣屋が類焼する。
    問屋方から出火し、陣屋建物・長屋・侍屋敷32軒、町内63軒を焼いた大火災であった。
  • 天明3年(1783年)7月、高田より浅川領内への移民が行われる。
    土地が悪く、苦役や飢饉(天明の大飢饉など)も重なり、浅川領は人口は減少の一途をたどり、手余り地が増大していった。年平均100人の人口減少は藩にとっても放置し得ない重大な政治課題であり、金や米などを支出するなど対策に腐心していた。その対策の一つとして、高田本領内から浅川領への移住希望者を募った。天明3年(1783年)春、浅川領の大庄屋が移民募集に赴いたときには、一家族10人の応募があった。この他にもたびたび移民の募集を行っていたようではあるが、この一家族を除いて移住した記録は見つかっていない。
  • 寛政10年(1798年)1月、浅川領内全域で打ちこわしが広がる(浅川騒動)。
    百姓らが蜂起し、大庄屋宅などを打ちこわしながら陣屋へ迫った。浅川騒動を参考のこと。
  • 文化元年(1804年)10月、大火に見舞われ陣屋が類焼する。
  • 文化2年(1805年)本町西裏へ陣屋を移す。
    夜中、町内より出火し、激しい風に煽られて陣屋建物を焼失させた。風向きが悪く類焼したことを考慮し、新しい陣屋を本町西裏(現浅川小学校敷地)に建てることになった。校内に浅川陣屋跡の記念碑が建てられている。

幕府領期

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  • 文化6年(1809年)白川・石川・田村郡のうち85か村の5万石が幕府領となる。
    藩の財政を逼迫させる悩みの種であり、村替えを懇願していた浅川領のうち、一部の5万石が越後国頸城郡と付け替えになった。付け替えられた幕府領は高田藩預かりとなり、残りの分領とともに浅川から釜子に陣屋を移して支配が続いた(釜子陣屋)。
  • 文政3年(1820年)3月、高田藩預かり地は幕府の直轄となり、浅川代官所が置かれる。
  • 天保9年(1838年)9月、塙代官陣屋の支配となり、浅川出張陣屋が置かれる。
  • 慶応4年(1868年)4月、浅川陣屋引渡し、明治新政府の管轄となる。

関連項目

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参考文献

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  • 浅川町史編纂委員会『浅川町史 第1巻 通史・各論編』福島県浅川町、1999年
  • 上越市史編さん委員会『上越市史・通史編4・近世二』新潟県上越市、2004年
  • 西ヶ谷恭弘編『国別 城郭・陣屋・要害・台場事典』東京堂出版、2002年