正親町三条公豊
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時代 | 南北朝時代 - 室町時代初期 |
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生誕 | 正慶2年/元弘3年(1333年) |
死没 | 応永13年6月24日(1406年7月9日) |
改名 | 公景(初名)→公豊→皎空(法名) |
別名 | 号:後三条、通称:後三条内大臣、称名院入道 |
官位 | 正二位、内大臣 |
主君 | 後醍醐天皇→光明天皇→崇光天皇→後光厳天皇→後円融天皇→後小松天皇 |
氏族 | 正親町三条家 |
父母 | 父:正親町三条実継 母:三条公明の娘 |
兄弟 |
公豊、三条西公時、行子 養兄弟:左京大夫局 |
妻 | 不詳 |
子 | 実豊、三条西公保、寛勝、京極高光室、女子二人 |
正親町三条 公豊(おおぎまちさんじょう きんとよ、旧字体:正親町三條 公󠄁豐)は、南北朝時代から室町時代初期にかけての公卿。内大臣・正親町三条実継の子。正親町三条家7代。官位は正二位・内大臣(北朝)。号は後三条。後三条内大臣、称名院入道などと呼ばれた。
経歴
[編集]初名は公景(きんかげ)。元弘4年(1334年)従五位下に叙位。建武4年/延元2年12月(1338年1月)従五位上に昇叙し、康永4年/興国6年(1345年)侍従任官。
貞和3年/正平2年(1347年)右近衛少将に任じられ、貞和4年/正平3年12月(1349年)に従四位上に叙される。下野権介、右中将を歴任し、文和2-3年/正平8-9年頃(1353–54年)に正四位下・美濃介に叙任。文和4年/正平10年(1355年)参議に任じられ公卿に列す。
文和5年/正平11年(1356年)従三位・備前権守に叙任。延文6年/正平16年(1361年)権中納言に任じられる。康安2年/正平17年(1362年)正三位、貞治3年/正平19年(1364年)従二位に陞叙。2年後には権大納言になり、応安3年/正平25年(1370年)正二位。その後はしばらく出仕を止めていたが、南北朝統一後の応永2年(1395年)9月に廟堂に復して内大臣に任じられる。その2か月後に出家、法名を皎空(こうくう)とした。
応永13年(1406年)6月に薨去、享年74。
官歴
[編集]- 元弘4年(1334年)- 1月5日 従五位下[1]
- 建武4年(1338年1月)- 12月24日 従五位上
- 暦応4年(1341年)- 1月6日 正五位下
- 康永4年(1345年)- 4月16日 侍従
- 貞和元年(1346年1月)- 12月30日 従四位下
- 貞和3年(1347年)- 3月29日 右近衛少将
- 貞和4年(1349年1月)- 12月30日 従四位上
- 貞和5年(1349年)- 3月15日 下野権介
- 観応2年(1351年)- 5月29日 右近衛中将
- 文和2年(1353年)- 11月23日 正四位下
- 文和3年(1354年)- 3月28日 美濃介
- 文和4年(1355年)- 8月13日 参議
- 文和5年(1356年)- 1月7日 従三位、1月28日 備前権守
- 延文6年(1361年)- 3月27日:権中納言
- 康安2年(1362年)- 5月7日:正三位
- 貞治3年(1364年)- 1月5日 従二位
- 貞治4年(1366年2月)- 12月30日 権大納言
- 応安3年(1370年)- 1月6日 正二位
- 応永2年(1395年)- 9月12日 内大臣、11月28日 出家
系譜
[編集]脚注
[編集]参考文献
[編集]- 「正親町三条公豊」、デジタル版 日本人名大辞典+Plus、コトバンク(2016年6月19日閲覧)