楊渥
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烈祖 楊渥 | |
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呉 | |
第2代王 | |
王朝 | 呉 |
在位期間 |
天祐2年11月26日 - 天祐5年5月8日 (905年12月24日 - 908年6月9日) |
都城 | 江都 |
姓・諱 | 楊渥 |
字 | 奉天 |
諡号 |
威王(唐の弘農郡王として) 景王(高祖による) 景皇帝(睿帝による) |
廟号 |
烈祖 烈宗(『新五代史』) |
生年 | 光啓2年(886年) |
没年 |
天祐5年5月8日 (908年6月9日) |
父 | 太祖 |
陵墓 | 紹陵 |
楊 渥(よう あく)は、十国呉の第2代王。太祖楊行密の長男。呉の君主の一人と認められているが、その在位中には呉王と名乗っていなかった。
生涯
[編集]楊行密の在位時には牙内諸軍使で、その晩年に病が重くなると宣州観察使となった。
天祐2年(905年)、父が死去すると跡を継ぎ、唐から淮南節度使・東南諸道行営都統・侍中・弘農郡王に任じられた。
楊渥は遊興にふけり、左衙指揮使張顥と右衙指揮使徐温の諫言を聞かず、父の代からの旧臣を威圧したため、天祐4年(907年、既に唐は滅びていたが、呉は後梁を認めていなかったため、唐の年号を使い続けていた)、張顥と徐温はクーデターを起こし、権力を奪取した。翌年に両者に殺害された。
死後、威王と諡されたが、弟の楊隆演が呉王になると改めて景王と諡された。廟号は烈祖(『新五代史』では烈宗とする)。楊溥の時期に景帝の諡号で追尊された。
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