明石和衛
人物情報 | |
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生誕 |
1888年8月30日 日本・東京府 |
死没 |
1956年5月6日(67歳没) 日本・東京都 |
国籍 | 日本 |
出身校 | 東京帝国大学工科大学機械工学科 |
学問 | |
研究分野 | 精密工学 |
学位 | 工学博士 |
称号 |
大日本体育協会評議員 日本陸上競技連盟評議員 精密工学会第3代会長 |
主要な作品 | 『ランニング』『岩波講座機械工学 5 工學測定 釣合試験』 |
学会 | 精密工学会 |
主な受賞歴 | 勲六等単光旭日章 |
明石 和衛(あかし かずえ、1888年(明治21年)8月30日[1] - 1956年(昭和31年)5月6日[1])は、日本の機械工学者(精密工学)、実業家。東京帝国大学卒業後、明石製作所を創業。工学博士となり、精密工学会会長を務めた。
日本の陸上競技黎明期に短距離走・中距離走・走幅跳の選手として活躍したほか、昭和初期にはゴルフに傾倒してゴルフコースの設計を行うなど、スポーツの世界にも足跡を残した。
生涯
[編集]東京生まれ[2]。第一高等学校から東京帝国大学に進む。1913年(大正2年)東京帝国大学工科大学機械工学科を卒業。「恩賜の銀時計」を受け[3]、大学院特選給費学生として母校に残った[3]。
学生時代には陸上競技選手として活躍。一高在学時、英米の陸上競技書を多数読んで練習に活かしたという[4]。東京帝国大学在学中は、東京帝国大学運動会で活躍、100m・200m・400mで優勝経験がある[2]。1911年(明治44年)11月に開催された国際オリムピック大会選手予選会に出場。200m走(25秒8)[5]、走幅跳(5.48m)[6]で優勝した。200mと走幅跳の記録は初代日本記録(日本学生記録でもある)とされる。100m走でも予選では優勝者の三島弥彦と並ぶ記録を出している。
1913年(大正2年)11月に開催された、大日本体育協会主催の第1回全国陸上競技大会(現在は第1回日本陸上競技選手権大会と位置付けられる大会)に参加し、100m走(12秒4)[7]、200m走(25秒2)[8][注釈 1]、110mハードル(17秒5)[9]の3種目で優勝。1914年(大正3年)に開催された第2回日本陸上競技選手権大会では100m走2連覇を達成(12秒1)。1915年(大正4年)10月21日には全国陸上男子走幅跳で日本記録(5m90)[6][注釈 2]。1915年(大正4年)には第2回極東選手権競技大会(上海)に短距離走の日本代表選手として参加[2]。
1916年(大正5年)5月10日、27歳の明石は明石製作所を創業した[1]。
1916年(大正5年)9月、金栗四三との共著で『ランニング』を発行。金栗が長距離走、明石が短距離・中距離走の練習法について執筆した[11][注釈 3]。
1917年(大正6年)に開催された日本初の駅伝競走大会「東海道駅伝徒歩競走」では、「選手選択委員」の一人として運営に当たった[13][14][注釈 4]
1925年(大正14年)には、第7回極東選手権競技大会(マニラ)に役員として参加[3]。
1928年(昭和3年)に精密工学会が設立されると副会長を務めた(会長は大河内正敏。なお、2代会長青木保のもとでも引き続き副会長)。
ゴルフにも傾倒し、1928年(昭和3年)には摂政杯[注釈 5]を獲得[3]。東京ゴルフ倶楽部に属する強豪ゴルファーとして知られた[2]。1935年(昭和10年)には山梨県の富士ゴルフコースの設計にあたっている[15]。
1933年(昭和8年)時点で、大日本体育協会や日本陸上競技連盟の評議員を務める[2]。1935年(昭和10年)頃に足の腱を切り、ランニングからは遠ざかったという[1]。
1940年(昭和15年)、紀元二千六百年式典に際して、多年の功績から勲六等単光旭日章を受章[1]。「産業人としては破格」という[16]。
1945年(昭和20年)2月、論文「支へ刃ノ負荷能力」で工学博士号を東京帝国大学より取得[17]。
1948年(昭和23年)に精密工学会第3代会長に就任するが、翌1949年(昭和24年)に退く。
1956年(昭和31年)5月6日、後楽園球場でプロ野球の試合を観戦中に倒れ、急死[3]。享年68。墓所は多磨霊園。
家族
[編集]- 父・明石言語 ‐ 元鳥取藩士。本所区元町で出版業の万事屋(明石商店)を営む。[18][19]
- 姉・中島よし(1873年生) ‐ 陸軍軍医少将・中島市太郎(1868-1957)の妻。1893年東京女子高等師範学校卒業後、1907年に結婚するまで女学校教師を務める。『家事教程』など家事関連の教科書を著した。[18]
- 妻・久(1898-1972) ‐ 日本製鋼所役員水谷叔彦の長女。聖心女子学院卒。[20]
- 長女・小山清子(1917年生) ‐ 小山忠恕(興銀データサービス社長、日本経営システム社長)の妻。義弟(夫の妹の夫)に丸山眞男
- 二男・明石和彦(1920-1989) ‐ 明石製作所社長。東京帝国大学地球物理学科卒。1955年にねじ転造盤で大河内記念技術賞受賞。兄が早世していたため父親の死後社長就任。1958年に「顕微鏡・マイクロメーター付ナイフエッジ」の米国特許を取得し、1961年科学技術功労者賞受賞、1965年日本顕微鏡学会会長就任。小金井製作所社長、日本試験機工業会会長なども兼任したほか、関連会社を多数設立して代表を務めた。[21][22]
- 二女・安川淑子(1924年生) ‐ 安川財閥・安川敬二の妻
おもな著作
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 日本学生陸上競技連合は25秒4とする[5]。
- ^ 慶応大学の甲斐義智が出した日本記録(5m73)を同日中に塗り替えたもので、甲斐の記録は「短命な日本記録」のひとつとなっている[6][10]。
- ^ 2019年に『復刻新装版 ランニング』(時事通信社)が復刻刊行されているが、復刻されたのは金栗執筆部分のみ(これに増田明美の解説を加えた書籍)である[11][12]。
- ^ 当初は「東京・神奈川等(紫色)」「京都・愛知等(赤色)」「大阪・兵庫等(青色)」3チームで競うことが計画され、「選手選択委員」がチーム編成をおこなった。明石は金栗四三・坂本信一とともに「東京・神奈川等」チームを担当。日比野寛・多久儀四郎が「京都・愛知等」、木下東作・高瀬肇・春日弘が「大阪・兵庫等」を担当した。結果として「関東組(紫色)」と「関西組(赤色)」の2チーム対抗となった[13][14]。
- ^ 東京ゴルフ倶楽部で開催される競技会。1932年(昭和7年)に摂政裕仁親王(のちの昭和天皇)からクラブに寄贈された賜杯。
出典
[編集]- ^ a b c d e “ネットに残る明石 人”. なつかしの仕事場・明石製作所. 2021年3月7日閲覧。[信頼性要検証]
- ^ a b c d e 日本スポーツ協会(編)『日本スポーツ人名辞典 昭和8年版』日本スポーツ協会、1933年、アの部 p.2頁 。2021年8月25日閲覧。(国会図書館デジタルライブラリ)
- ^ a b c d e 久田太郎 1956, p. 6.
- ^ 国際日本文化研究センター(日文研). “【#研究紹介】帝国大学学生へ余暇に陸上競技を紹介したのは…”. twitter. 2021年3月7日閲覧。[信頼性要検証]
- ^ a b “日本学生記録の変遷 男子200m”. 日本学生陸上競技連合. 2021年3月7日閲覧。
- ^ a b c “日本学生記録の変遷 男子走幅跳”. 日本学生陸上競技連合. 2021年3月7日閲覧。
- ^ “過去の優勝者・記録 男子100m”. 第105回日本陸上競技選手権大会. 日本陸上競技連盟. 2021年8月25日閲覧。
- ^ “過去の優勝者・記録 男子200m”. 第105回日本陸上競技選手権大会. 日本陸上競技連盟. 2021年8月25日閲覧。
- ^ “過去の優勝者・記録 男子110mハードル”. 第105回日本陸上競技選手権大会. 日本陸上競技連盟. 2021年8月25日閲覧。
- ^ “編集部コラム「日本記録アラカルト」”. 月陸Online. 2021年3月7日閲覧。
- ^ a b 山口一臣 (2019年6月7日). “100年前に、現代でも通用する練習法を編み出した“日本のマラソンの父”金栗四三 ”. &M. 朝日新聞社. 2021年3月4日閲覧。
- ^ “金栗四三の「幻の名著」を増田明美が読む”. 時事ドットコムニュース. 2021年8月25日閲覧。
- ^ a b “陸上競技のルールをさぐる21 駅伝競走の歴史<そのIII>”. 筑波大学陸上競技部OB・OG会 (2019年1月15日). 2021年3月7日閲覧。
- ^ a b 有吉正博. “ランニング・カフェ第25話「駅伝誕生100年」1”. ランニング学会. 2021年3月7日閲覧。
- ^ “コースの歴史”. 富士ゴルフコース. 2021年3月7日閲覧。
- ^ 久田太郎 1956, p. 5.
- ^ 支へ刃ノ負荷能力 - 国立国会図書館サーチ
- ^ a b 中島よし『日本婦人の鑑 改訂』婦人評論社、1935
- ^ 単語独案内 : 英文図入 谷俊三 万字屋 明18
- ^ 水谷叔彦『人事興信録 第13版下』1941
- ^ 歴代会長日本顕微鏡学会
- ^ 明石和彦歴史が眠る多磨霊園
参考文献
[編集]- 久田太郎「明石和衛博士をおもう」『日本機械学会誌』第59巻第450号、1956年、2021年3月3日閲覧。
外部リンク
[編集]- ネットに残る明石 人 - なつかしの仕事場・明石製作所