小出三尹
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代前期 |
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生誕 | 天正17年(1589年) |
死没 | 寛永19年4月29日(1642年5月27日) |
別名 | 万助、五郎助(通称) |
戒名 | 青雲院殿前隅州太守梅隠宗周居士 |
墓所 | 祥雲寺(東京都渋谷区広尾) |
官位 | 従五位下、大隅守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 豊臣秀吉→秀頼→徳川家康→秀忠→家光 |
藩 | 和泉国陶器藩主 |
氏族 | 小出氏 |
父母 |
父:小出秀政、母:某氏[1] 養父:小出秀家 |
兄弟 | 吉政、秀家、日充[2]、三尹、重堅[3]、秀清[4] |
妻 | 正室:生田宇庵の娘、継室:金森可重の娘 |
子 | 有棟、尹貞、娘(多羅尾光房室)、三明、尹明)、娘(織田長種正室)、娘(三枝守全正室) |
小出 三尹(こいで みつただ[5]/みつまさ[6])は、江戸時代前期の大名。和泉陶器藩初代藩主。秀家流小出家2代当主。三尹の「三」は石田三成からの偏諱ともされる[5]。
略歴
[編集]天正17年(1589年)、小出秀政(和泉岸和田藩主)の四男として、丹波国で生まれた。秀政の正室は、豊臣秀吉の母なか(大政所)の妹・栄松院であるが、三尹の母は側室のため、秀吉と血のつながりはない。
はじめ豊臣秀吉に仕え、秀吉馬廻を勤めた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは父や兄と同じ西軍に属し、『武家事紀』などによれば、吉政の養子の木下俊定らと大津城の戦いに参加し、少年ながら砲を操作していて敵弾で負傷した[5]。親子共々処分されても仕方がない状況であったが、兄の秀家が一人東軍に属して各所で戦功を挙げたため、その功により小出家は皆助命されて所領もそのままとなった。
慶長8年(1603年)、兄秀家が死去したため、その養子となって家督を継ぎ、豊臣秀頼に仕えた。同年、徳川家康の推挙により、従五位下に叙される。
慶長9年(1604年)の父・秀政の死より、遺領の一部が与えられることになって、甥の吉英の領地であった和泉国大鳥郡、河内国錦部郡、摂津国西成郡、但馬国気多郡、美含郡の5郡において、併せて1万石を分与されて大名となり、和泉陶器藩の初代藩主となった。なお、秀家より相続した旧領2000石はこの時に召しあげられた。
慶長14年(1609年)、江戸に出て、将軍徳川秀忠に伺候する。
慶長19年(1614年)からの2度の大坂の陣に徳川方として参加した。
寛永10年(1633年)、永井監物白元、乗山内匠一直らと尾張で奉行を務め、同12年には遠江でも奉行を務めた。また寛永11年(1634年)の将軍徳川家光の上洛に供奉した。寛永17年(1640年)の池田輝澄改易の際の上使を務めるなどに功績があった。
寛永19年(1642年)4月29日、播磨国山崎で死去した。享年54。跡を長男の有棟が継いだ。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 堀田正敦 編「国立国会図書館デジタルコレクション 小出氏」『寛政重修諸家譜』 。
- 大日本人名辞書刊行会 編『国立国会図書館デジタルコレクション 大日本人名辞書』 上、大日本人名辞書刊行会、1926年 。
- 高柳光寿; 松平年一『戦国人名辞典』吉川弘文館、1981年、98頁。