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小出三尹

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
小出 三尹
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 天正17年(1589年
死没 寛永19年4月29日1642年5月27日
別名 万助、五郎助(通称
戒名 青雲院殿前隅州太守梅隠宗周居士
墓所 祥雲寺東京都渋谷区広尾)
官位 従五位下、大隅
幕府 江戸幕府
主君 豊臣秀吉秀頼徳川家康秀忠家光
和泉国陶器藩
氏族 小出氏
父母 父:小出秀政、母:某氏[1]
養父:小出秀家
兄弟 吉政秀家、日充[2]三尹重堅[3]秀清[4]
正室:生田宇庵の娘、継室:金森可重の娘
有棟尹貞、娘(多羅尾光房室)、三明尹明)、娘(織田長種正室)、娘(三枝守全正室)
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小出 三尹(こいで みつただ[5]/みつまさ[6])は、江戸時代前期の大名和泉陶器藩初代藩主。秀家流小出家2代当主。三尹の「三」は石田三成からの偏諱ともされる[5]

略歴

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天正17年(1589年)、小出秀政(和泉岸和田藩主)の四男として、丹波国で生まれた。秀政の正室は、豊臣秀吉の母なか(大政所)の妹・栄松院であるが、三尹の母は側室のため、秀吉と血のつながりはない。

はじめ豊臣秀吉に仕え、秀吉馬廻を勤めた。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは父や兄と同じ西軍に属し、『武家事紀』などによれば、吉政の養子の木下俊定らと大津城の戦いに参加し、少年ながら砲を操作していて敵弾で負傷した[5]。親子共々処分されても仕方がない状況であったが、兄の秀家が一人東軍に属して各所で戦功を挙げたため、その功により小出家は皆助命されて所領もそのままとなった。

慶長8年(1603年)、兄秀家が死去したため、その養子となって家督を継ぎ、豊臣秀頼に仕えた。同年、徳川家康の推挙により、従五位下に叙される。

慶長9年(1604年)の父・秀政の死より、遺領の一部が与えられることになって、甥の吉英の領地であった和泉国大鳥郡河内国錦部郡摂津国西成郡但馬国気多郡美含郡の5郡において、併せて1万石を分与されて大名となり、和泉陶器藩の初代藩主となった。なお、秀家より相続した旧領2000石はこの時に召しあげられた。

慶長14年(1609年)、江戸に出て、将軍徳川秀忠に伺候する。

慶長19年(1614年)からの2度の大坂の陣に徳川方として参加した。

寛永10年(1633年)、永井監物白元、乗山内匠一直らと尾張で奉行を務め、同12年には遠江でも奉行を務めた。また寛永11年(1634年)の将軍徳川家光の上洛に供奉した。寛永17年(1640年)の池田輝澄改易の際の上使を務めるなどに功績があった。

寛永19年(1642年)4月29日、播磨国山崎で死去した。享年54。跡を長男の有棟が継いだ。

脚注

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  1. ^ 『寛政重修諸家譜』による。
  2. ^ 庶兄。僧となり、本圀寺栄松院の住職となった。
  3. ^ 庶弟。同じく秀家の養子となるが、三尹が継いだので、別家を興す。
  4. ^ 庶弟。吉政家来。
  5. ^ a b c 高柳 & 松平 1981, p.98
  6. ^ 寛政重修諸家譜』では「みつまさ」とルビを振っているが、三尹を祖とする小出氏系図、『野史』、及び三尹が伽藍を再建、整備した大阪府堺市高倉寺の寺伝では「みつただ」と伝えているため、両者併記としている。

参考文献

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