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宣阿

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
香川景継
時代 江戸時代中期
生誕 正保4年(1647年
死没 享保20年9月22日1735年11月6日
改名 景継→宣阿
別名 三十郎、吉助、木工允、隣善、一枝軒、淵龍、梅月堂
墓所 京都市左京区東大路通二条下ル北門前町 聞名寺
主君 吉川広嘉広紀徳大寺家
周防国岩国領
氏族 香川氏
父母 父:香川正矩 
兄弟 正経、景継
景新
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宣阿(せんあ)は、江戸時代中期の武士、歌人。諱は景継(かげつぐ[1]

略歴

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吉川家家老の香川正矩の次男として生まれ、延宝元年(1673年)に上洛した。初め儒学者として活動したが、貞享4年(1687年)に出家したのを契機として歌人に転じ、二条派清水谷実業三条西家一門)や冷泉家に師事[1]歌道二条派地下(じげ)宗匠として梅月堂を創始した。和歌は、時衆の文学史とも深く関わった。歌集に『水雲集』がある。一条烏丸の西入町に本拠を構えた[2]

宣阿と陰徳太平記

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宣阿は『陰徳太平記』の著者として有名であるが、その原典である『陰徳記』は宣阿の父、香川正矩が執筆していたものである。父の遺志を継いだ景継は京都に遊学、執筆を続ける。享保元年(1716年)9月10日出版許可、享保2年(1717年)に出版となった。[3][注釈 1]

人物・評価

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「一条の今西行」と評されていた[2]

著作

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  • 『陰徳記自序』
  • 『陰徳太平記』
  • 『草庵和歌集蒙求諺解』
  • 『水雲集』

脚注

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注釈

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  1. ^ 元禄8年(1695年)景継は『陰徳記自序』を書いており、この頃に『陰徳太平記』の完成、宝永3年(1706年)出版許可、正徳2年(1712年)出版に至った[1]とされてきたが、以降も草稿の検討が引き続き行われていることから妥当ではないとされる。

出典

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  1. ^ a b c 兼清 1988, pp. 15.
  2. ^ a b 兼清 1988, pp. 16.
  3. ^ 山本洋「『陰徳太平記』の成立事情と吉川家の家格宣伝活動」『山口県地方史研究』93号、2005年。 /所収:光成 2016

参考資料

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  • 『正徳二年板本 陰徳太平記』 笹川祥生・松田修著
  • 『歌人梅月堂宣阿』 渡辺隆一著
  • 上智大学国文学論集26号『初代梅月堂香川宣阿のこと』 神作研一
  • 兼清正徳『『香川景樹』』(吉川弘文館〈人物叢書〉、1988年。ISBN 4-642-05131-7 
  • 光成準治 編『吉川広家』戎光祥出版〈シリーズ・織豊大名の研究 第四巻〉、2016年。ISBN 978-4-86403-215-5 

関連項目

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