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津軽為信

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津軽 為信 / 大浦 為信
津軽為信像(革秀寺蔵)
時代 戦国時代 - 江戸時代初期
生誕 天文19年1月1日1550年1月18日
死没 慶長12年12月5日1608年1月22日
改名 扇(幼名)→大浦弥四郎→為信→津軽為信
戒名 瑞祥院殿天室源棟大居士
墓所 青森県弘前市藤代の津軽山革秀寺
官位 従五位下右京亮従四位下・右京大夫、贈従三位
幕府 江戸幕府
主君 豊臣秀吉秀頼徳川家康秀忠
陸奥国弘前藩(津軽藩)藩主
氏族久慈氏?→)大浦氏→津軽氏
父母 父:大浦守信?、久慈治義(信長)?
養父:大浦為則
正室:大浦為則の娘・阿保良
側室:栄源院(白鳥長久の娘[1])
信建信堅信枚冨子兼子盛久
養子:建広
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津軽 為信(つがる ためのぶ)/ 大浦為信(おおうらためのぶ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将大名陸奥国弘前藩初代藩主。官位従四位下右京大夫

生涯

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出自

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津軽為信の出自には様々な説や伝承があり、南部氏支族で下久慈城主であった久慈氏の出とも、大浦守信の子とも言われる。為信の経歴は津軽氏側に残される資料と、南部氏側の資料との間で記述に食い違いがあるため、はっきりしない点が多い。

為信が南部氏の一族であったという見方は、南部氏側の資料に存在する。この見方を補強する資料が津軽家文書の中にもある。その文書は豊臣秀吉から送られたもので、宛名は「南部右京亮(なんぶうきょうのすけ)」とある。この書状は為信に宛てられたものであると推定されていることから、大浦氏が三戸南部氏、八戸の根城南部氏等と同様に南部氏の一族であったことを示す証拠の一つと推定されている。

為信の実家と言われる久慈氏の出自は、南部氏始祖である南部光行建久2年(1191年地頭職として陸奥糠部郡に入部して以降、その四男・七戸三郎朝清の庶子の家系が久慈に入部して久慈氏を称したとされ、室町期には南部嫡流の時政の子・信実久慈修理助治政の養子となっている。

永禄10年(1567年)(永禄11年(1568年)説もある[2])、大浦為則の養子となり、大浦氏を継いで大浦城主になる。

謀反

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弘前藩の官撰史書である『津軽一統志』によると、元亀2年(1571年)5月5日、自分の支城の堀越城から出撃、2キロメートルほど離れている石川城を工事を装いながら、突如攻略し、南部宗家である三戸南部家当主・南部晴政の叔父にあたる石川高信を自害に追い込んだ(生き延びたとする説[注釈 1]もある)。南部晴政は、この頃には石川高信の実子でかつ晴政の長女の婿となり養嗣子であった石川信直と争っており、三戸南部家と石川家の内部抗争をいいことに為信は周りの豪族を次々に攻め始める。晴政が対立する石川家を弱体化させるため石川家の津軽地方を掠め取るよう、為信を密に唆したとの説もある。 天正3年(1575年大光寺城の城代滝本重行を攻め、敗退するも、翌年(1576年)攻め落とす(『永禄日記』)。 天正6年(1578年)7月、予め無頼の徒輩を潜入させておき放火、撹乱で浪岡城を落城させ浪岡御所・北畠顕村北畠親房の後裔)を自害させる。しかし奥州の貴種であった浪岡北畠氏を滅ぼした影響で安東氏との関係も悪化。安東・南部・浪岡氏勢力との戦いである六羽川合戦が起きる。

それに対し南部氏側史料[4]によると、石川高信が津軽に入ったのを元亀3年(1572年)として、天正9年(1581年)に(為信に攻め殺されておらず)病死としている[注釈 2]。為信は、高信から津軽郡代を継いだ次男(石川信直の弟)の石川政信に重臣として仕え、主君に取りいるために自分の実妹・久を政信の愛妾に差し出していた。天正10年(1582年)、同役の浅瀬石隠岐が死ぬや政信に、もう一人の同役の大光寺光愛を讒言し出羽国に追放させた。そして天正18年(1590年)3月[注釈 3]、政信と於久をともども宴席に招待し油断させて毒殺し、その居城だった浪岡城を急襲占拠して津軽地方押領したとある。しかし、これに関しては南部氏側の作意を示す証拠[要出典]が存在する。民間記録『永禄日記』を初め[注釈 4]、『南部晴政書状』[注釈 5]や『南慶儀書状』も元亀2年の為信の石川城攻略を物語っている[注釈 6]。そして天正年間には既に津軽地方は為信が完全に掌握[要出典]しており[注釈 7]、石川政信が津軽に入れる状況ではなかった[注釈 8]。さらに南部氏側の主張が事実なら天正18年に挙兵した為信は、同年の小田原征伐での豊臣秀吉の元へ参陣していないことになる[注釈 9]。現在では南部家は豪族の連合体の粋を脱しておらず、「郡代」を置けるほど三戸南部氏の勢力や統制は強固なものではなかったと考えられている(そもそも主従関係ではなかった)。

ちなみに津軽氏側資料では、石川政信はその父・高信が死んだ翌元亀3年に為信に討たれているが毒殺との記載はなく、また津軽氏系譜に為信の妹は載っていない。

独立

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天正13年(1585年)3月油川城を攻略し外が浜一帯を制圧[注釈 10]した後、さらに田舎館城を落す。この頃、為信の正室・阿保良の弟2人(大浦為則の五男、六男)が川遊び中に溺死しているが、これは為信が後の跡目争いを避けるため義弟たちを暗殺させたと言われている。同年4月には盟友である千徳政氏浅瀬石城を守備して南部勢3,000を奮戦によって撃退する(宇杭野の合戦)が、為信はこれに援軍を送らなかったとされ、後々盟友関係に亀裂が入るきっかけとなる。またこれ以前に天正9年(1581年)頃、北方交易の権益拡大を目論む為信は津軽アイヌと抗争状態となり、鼻和郡でアイヌ民族の掃討戦を実行した[5]

最上氏から得た情報により中央の豊臣政権に対する工作が必要と考え、天正13年初めて自ら上洛しようと鰺ヶ沢より海路出帆したが、暴風に巻き込まれ松前沖まで流されてしまう。それでも上洛を果たそうと、天正14年(1586年)は矢立峠を越えるルートを試みるが比内浅利氏の妨害で、天正15年(1587年)に兵2,000と共に南部領を突き切ろうとするが南部氏に妨げられて、天正16年(1588年)には秋田口から進んだが秋田氏に阻まれて、いずれも失敗し引き返している。

本領安堵

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天正17年(1589年秋田実季と和睦し、自らではなかったが家臣・八木橋備中を上洛させることに成功した。豊臣氏家臣の石田三成を介して豊臣秀吉に名馬と鷹を献上し、津軽三郡平賀郡鼻和郡田舎郡)ならびに合浦一円の所領を安堵された。しかし後の奥州総検地ではこの所領高4万5,000石のうち3万石が津軽領地高で、残り1万5,000石は太閤蔵入地とされた。 秀吉の小田原征伐の際には、家臣18騎を連れて為信自身が、天正18年(1590年)3月駿河国三枚橋城へ参向し、小田原へ東下する秀吉に謁見した。

一方、南部家では前田利家を頼って、為信を惣無事令に違反する逆徒として喧伝し秀吉に訴え、一度は為信は征伐の対象にされかけた。 だが早くから豊臣政権に恭順の意を示す政治的工作を行っており、天正18年4月小田原へ兵1,000を連れて参陣した南部信直に先駆け、その前月に小田原への途上の沼津で秀吉に謁見を果たしていた為信は、石田三成、羽柴秀次織田信雄を介しての釈明が認められ独立した大名として認知されることに成功した[6]。これには、秀吉、秀次、織田信雄の三名とも鷹狩りを好んだことを聞きつけた為信が、津軽特産の鷹を贈って友誼を結んだ[注釈 11]ことも本領安堵に繋がったと見られている[7]

また、大浦政信近衛尚通の落胤だという伝承にちなみ、為信は早くから廷臣の近衛家に接近して折々に金品や米などの贈物をしており、上洛した際に元関白近衛前久を訪れ「自分は前久公の祖父・尚通殿が奥州遊歴なされた際の落胤」と主張していた。近衛家に限らずその頃の公家は窮乏しており、関白職に就きたいが家柄の無い羽柴秀吉を猶子にして藤原姓を授けた近衛前久は、為信からの財政支援増額により為信も猶子とした。このときから為信は本姓藤原として、近衛家紋の牡丹に因む杏葉牡丹の使用を許され、姓を大浦から津軽に改めている。これにより形式上は、秀吉と為信は義兄弟となった。

その後は九戸政実の乱の討伐[注釈 12]文禄・慶長の役伏見城普請などに功績を挙げた。

文禄3年(1594年)には大浦城から堀越城へ居城を移した。

慶長2年(1597年)為信は千徳政氏の子・政康が居る浅瀬石城を攻めて、かつて盟友関係にあった千徳氏を滅ぼした[注釈 13]

関ヶ原の戦いと晩年

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慶長5年(1600年)1月27日、右京大夫に任官される(藤原姓)[8]。同年の関ヶ原の戦いでは領国の周囲がすべて東軍という状況から三男・信枚と共に、東軍として参加した。しかし、嫡男・信建豊臣秀頼小姓衆として大坂城にあり、西軍が壊滅すると三成の子・重成らを連れて帰国している。これらを考えると、つまりは真田氏らと同様の、両軍生き残り策を狙ったとも考えられる。そのためか戦後の行賞では上野国大舘2,000石の加増に留まった(上野領については満天姫大舘御前の項目参照)。

関ヶ原出陣中に家臣が反乱するのを恐れ、出陣前に一族である重臣の森岡信元を暗殺させるが、結局、合戦中に国許で反乱が起こって居城の堀越城を占拠された。しかし西軍敗戦の報が伝わると、反乱方は戦意喪失の上で追討されている。

その後も家中騒動にて堀越城は簡単に占拠されたりなどしたため、慶長8年(1603年)には岩木川土淵川に挟まれた高岡(鷹岡)に新城を着工した(のちに同地は弘前と改名され、城は弘前城となる)。ただし城の建設はあまり進まず、次代の信枚に引き継がれた。

慶長12年(1607年)10月13日、嫡男・信建が京都で死去した[9]

同年(慶長12年)12月5日、死去[10]。58歳[10]

大正4年(1915年)10月24日、従三位を贈られた[11]

為信の名代を務めるなど、次代として確実視されていた嫡男の信建と為信自身が相次いで死去したため、家督は三男の信枚(次男の信堅も既に死亡していた)が継いだものの、翌年、信建の嫡男熊千代(大熊)が金信則津軽建広ら信建派の家臣に推されて、正嫡を主張し幕府に裁定を求めるお家騒動が勃発した(津軽騒動)。幕府は信枚を正嫡として公認し、建広らは追放されお家騒動は収まった。

墓所

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弘前市藤代にある革秀寺にあり、霊屋の建物は国の重要文化財に指定されている。また、弘前市西茂森長勝寺に木像が安置されている。明治時代に入って第4代藩主で為信の曾孫にあたる信政を祀る高照神社に合祀されている。

人物・逸話

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津軽為信の銅像
  • 弘前城東門近くの弘前文化センター正面入口前には、津軽為信の銅像がある。戦前までは弘前城本丸にあった銅像は、戦時中の金属供出により撤去され、銅像出陣といわれている。2004年、新たな銅像が今の位置に設置された。
  • 嫡男・信建が京に在番中に病に倒れた際、津軽にいた為信は、自身も病に陥っていたにもかかわらず、信枚を伴って京まで見舞いに訪れ、そのまま同地で没している。親子兄弟の最期の別れがしたかったから、という見解もあるが、信建が診察を受けていた名医に自分も診てもらいたかったからという説もある。いずれにせよ、その年の10月に信建は在京のまま死去し、その2ヵ月後に為信も京で死去した。
  • 大浦(津軽)氏を1代で大名に引き上げた為信は、当時からその実力を高く評価されており、「天運時至り。武将其の器に中らせ給う」(『津軽一統志』)とある。
  • 岩手県久慈市では地元出身の偉人とされており、久慈秋祭りには津軽為信を題材とする山車が出る[12][13]
  • 為信が着手して信枚が完成させた弘前城には、「館神」という守り神の社があった。この社は稲荷社であったが、実はその稲荷様の後ろに厨子があり、その厨子は一度も開かれることがなく、「館神」はその中に安置されていると言われていた。明治になってその「開かずの宮」の扉が開けられると、中には豊臣秀吉の木像が入っていた。為信は、幕府による改易の危険を顧みずに、津軽家を大名にしてくれた秀吉を城内に祀っていたのである。
  • 肖像画や銅像などから見て取れるように、立派な髭や兜の前立ての錫杖がトレードマークである。
  • 豊臣秀吉から太刀友成」を拝領した。この太刀は歴代藩主に受け継がれた後に、最後の藩主津軽承昭高照神社に寄進[14]2020年現在、神社横に建設された高岡の森弘前藩歴史館に収蔵されている。

系譜

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家臣

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小笠原・兼平・森岡の3名は「大浦三老」と呼ばれる。

フィクションにおける津軽為信

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小説

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ラジオドラマ

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ゲーム

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演劇

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その他

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脚注

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注釈

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  1. ^ 黒石市浅瀬石星田文書に「石川左工門之介源高信は南部に行きて未だ還らず。城中支うる者なかりしかば為信は戦わずして攻略すること得たり。」「…南部高信が来たりて津軽を総監せしが、留守中為信に攻められ落城したり。」という記述がある。また大行院 (弘前市)の元禄15年(1702年)の書上帳に『一 十一面観音堂 寺山館ニ石川大膳天正二年ノ本尊長サ一尺五寸木造石川殿安置仏云』という記述もあるという[3]
  2. ^ 奥南落穂集では天正8年(1580年)石川城にて病死説、祐清私記では天正9年2月21日津軽で病死説を採っている。
  3. ^ 史料により天正16年説(奥南落穂集)、天正17年説(南部史要)もある。いずれにせよ3月16日に死没したという部分は共通している。南部氏の公認系図である『御系譜』には「為奥州津軽郡代、居浪岡城、天正十六年戊子年三月十六卒、行年廿九歳云々」とある。
  4. ^ 永禄日記元亀2年5月5日「八幡宮競馬、早朝ニ見物仕候。同夜大浦殿五百騎程ニ而石川大淵ヶ崎へ押寄大膳殿を落し候由。同日和徳讃岐も落し候而諸人驚入候。尤大浦殿ハ堀越町居飛鳥殿城江入り候。」とあるが、「候由」とあるようにこれは伝聞である。また黒石市浅瀬石星田文書のように、当時石川城は城主の石川高信不在であったとする記述もある。また大行院書上帳も高信の生存を示している。
  5. ^ 晴政書状(『南部家文書』100~102号)は浅水(三戸郡五戸町)方面攻めに八戸氏の加勢を依頼したもので、為信の独立を傍証するものではない。
  6. ^ 元亀2年~天正16年頃迄の為信の軍事行動について南部側編纂史料が触れていないことは事実である。しかしこれら遠野南部家所蔵文書については歴年が記されておらず、年代比定には慎重を要する。『岩手県史』においても「これら書状は同一年代のものか否か判明しない」とある。『青森県史』『新青森市史 資料編2』でも南慶儀書状が年代比定し直されている。それによると、天正17年(1589年)の段階でも津軽地方において為信が何らかの軍事行動を起こしていたとみられており『津軽一統志』の記述の信頼性も疑われる。よって天正17年前後に浪岡城が為信により襲われたとする南部側史料が専ら改竄されたものだという説は検証を要する。
  7. ^ 六羽川合戦では比山・滝本勢の侵攻を許しており、また撃退したとはいえ大浦勢も痛手を受けており、南部氏が浪岡氏旧臣を取り込んでいく中で完全に掌握できていたのかは疑問が残る。
  8. ^ 奥南落穂集』『津軽之事』に「石川高信君石川城にて天正八年死去有しといへども大光寺始め諸臣彦次郎政信君を補佐、北畠の臣下を服従せし故、自から南部家領知になり、行丘城(浪岡城)に移住し給ふなり。」とある。
  9. ^ 『奥南落穂集』『津軽右京大夫為信之事』では「天正十八年九戸政実宮野城に籠り、三戸勢之を囲み、日々合戦止む時なし。此時太閤秀吉公北条征伐として関東に下向あり、是まで殿下へ不通の輩は皆征伐の風説相聞得たる故に、右京密に上京縁を求めて近衛前関白前久公を頼り嘆願せしかば、前久公御承諾せられ、祖父尚通公落胤の孫に被成下、藤原姓杏葉牡丹の御紋所まで賜り、秀吉公への吹挙の御書持参して小田原御陣所へ下り、秀吉公に謁し、津軽郡四万五千石の安堵書を賜り、従五位下右京亮と被成下」とあり、小田原参陣を否定していない。
  10. ^ 『新青森市史 資料編2』では南慶儀書状の一つ(『南部家文書』112号)を天正17年(1589年)に比定し直しており、それによると天正17年時点で横内城や浜口(小湊口)などの外ヶ浜東部は依然として南部領として健在であり、天正13年に横内城主・堤弾正左衛門らを討ち外ヶ浜全域を手に入れたという津軽氏側の記述は脚色されたものだとしている。一方で『永禄日記』には天正13年3月に「大浦殿旗本勢千余人、三月二十九日門徒寺へ御留り、外ヶ浜不残御手に入候。」とあり、外ヶ浜攻略は天正13年と天正18年(1590年)の二度に渡って行われた可能性も指摘されている。
  11. ^ 弘前藩に織田信雄のお礼の書状が残されている。
  12. ^ 九戸氏討伐直後にも南部信直は小田原参陣時に続いて、為信を悪逆であると言い募り豊臣秀吉の奉行浅野長政に実父・石川高信の敵討の許しを願い出たので、長政は拒否するとともに不測の事態を避けるため、討伐軍に加わっていた為信に即刻領地へ帰るよう促したとされる。
  13. ^ 永禄日記慶長2年3月5日の項に「浅瀬石大和並、一子安芸両人堀越之城江呼寄、大勢取巻打取。三男城之介ハ先達而病死致候。其子息一人四歳ニ成しを家来引連南部江落行候。右者先年より謀反之心有之ニ付顧此度打取候由。」とあり、千徳氏を通説のような合戦ではなく謀略により殺害した可能性がある。

出典

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  1. ^ 青森県弘前市大字新寺町、浄土宗月窓山栄源院貞昌寺に残る記録史料より
  2. ^ 長谷川成一、他 『青森県の歴史』 山川出版社〈県史〉、2000年、年表。 ISBN 4-634-32020-7
  3. ^ 大仏ケ鼻城を偲ぶ会 『つわものどもの夢のあと 石川城』、1981年。
  4. ^ 奥南落穂集』『祐清私記』『信直記』『南部史要』、松岡西庵書上、石井三庵政満覚書、等
  5. ^ 長谷川成一 著「本州北端における近世城下町の成立」、北海道・東北史研究会 編『海峡をつなぐ日本史』三省堂、1993年、153-156頁。ISBN 4385354618 http://hdl.handle.net/10129/2044
  6. ^ 秀吉から為信に宛てた朱印状、津軽家文書及び、白川亨『石田三成の生涯』(第二章十項「近世大名津軽家存続の背景と石田三成」)より。
  7. ^ 『弘前市史』では個人名を明記していないが、有力者との仲介をした秀吉側近の存在が言及されている。
  8. ^ 村川浩平「天正・文禄・慶長期、武家叙任と豊臣姓下賜の事例」『駒沢史学』80号、2013年。
  9. ^ 青森県 1971, p. 249.
  10. ^ a b 青森県 1971, p. 250.
  11. ^ 青森県 1971, p. 252.
  12. ^ 岩手県 「希望王国岩手放課後座談会(H21.1.22)」、2009年3月19日。
  13. ^ 畑浩治英雄津軽為信」『畑こうじ情熱ブログ』、2008年7月6日。
  14. ^ 太刀 銘 友成作”. 一般社団法人 弘前文化財保存技術協会. 2020年10月2日閲覧。
  15. ^ 弘前城合体ロボ「超城合体タメノブーンV」登場 株式会社ジェイクリエイト『観光Re:デザイン』
  16. ^ 超城合体タメノブーンV弘前市公式サイト

参考文献

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関連項目

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  • 久慈市(為信の出身地とも言われている)
  • たか丸くん弘前城築城400年祭のイメージキャラクターで為信の兜もデザインされている。

外部リンク

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