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ヘレン・レディ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ヘレン・レディ
Helen Reddy
1975年のフォト
基本情報
出生名 Helen Maxine Lamond Reddy
生誕 (1941-10-25) 1941年10月25日
出身地 オーストラリアの旗 オーストラリア
ビクトリア州メルボルン
死没 (2020-09-29) 2020年9月29日(78歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
カリフォルニア州ロサンゼルス
学歴 私立ティンターン・グラマー校
ジャンル ポップ・ミュージック
アダルト・コンテンポラリー
職業 歌手女優
活動期間 1966年 - 2002年
2011年 - 2017年
レーベル キャピトル・レコード
MCAレコード
Prestige Records
ヴァレーズ・サラバンド・レコーズ

ヘレン・レディHelen Reddy1941年10月25日 - 2020年9月29日)は、オーストラリア出身の歌手女優

オーストラリアを代表する音楽アーティストの一人で、1972年のシングル「私は女」が全米チャート1位を獲得し、オーストラリア人として初めてグラミー賞を受賞。アメリカ合衆国に進出したオーストラリア出身成功者の草分け的存在であった[1]

人物

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1960年代末にオーストラリアからアメリカのロサンゼルスに渡った。1970年代、国際的な成功を収めた。特にアメリカ合衆国では、ビルボードHot100のトップ40に15曲を送り込み、6曲がトップ10入り、「私は女」「デルタの夜明け」「アンジー・ベイビー」の3曲がナンバー1に輝いた。

レディはビルボードのアダルトコンテンポラリーチャートに25曲を送り込んだ。トップ15を15曲、8曲が6週連続No.1となった。1974年アメリカン・ミュージック・アワードで、Favorite Pop / Rock Female Artist賞を受賞した最初のアーティストとなった。同年に3曲のヒットを記録した最初のオーストラリア人であった。

テレビ界では、史上初のオーストラリア人司会者として、アメリカ合衆国のテレビネットワークで毎週1時間のプライムタイム・バラエティ・ショーの司会を務め、世界40か国以上で視聴された。

2002年、レディは音楽活動から退き、オーストラリアの大学に戻り学位を取得、臨床催眠術医として、動機づけのスピーカーの練習をした。

晩年のレディ(2007年)

2011年、異父姉であるトニー・ラモンドの誕生日に、姉トニーと「Breezin' Along with the Breeze」を歌った縁で、音楽活動に復帰。

「私は女」(1972年)は大衆文化で大きな役割を果たし、第二派フェミニズムの賛歌となった。

彼女は「フェミニストのポスターガール」、「フェミニストのアイコン」として知られるようになった。2011年、ビルボードは28人目のアダルトコンテンポラリーアーティストとして殿堂入り(9人目の女性)。

2015年に認知症と診断されて以降、一線を退く。

2020年9月29日ロサンゼルスで死去、78歳[2]

私生活

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20歳のとき、ケネス・ウィートという年上のミュージシャンと結婚。娘のTraciを生んだあと二人は別れる。

1968年ニューヨーク市ブロンクス出身のジェフ・ウォルドと結婚。レディはウォルドと結婚する前にユダヤ教に改宗している[3]。二人は1972年にジョーダンという息子をもうけた[4]。ウォルドはレディのマネージャーを務めた。1981年1月、離婚。

1983年6月、自身のバンドのドラマー、ミルトン・ルースと結婚。1995年、ルースと離婚。

フィルモグラフィ

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映画

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ディスコグラフィ

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スタジオ・アルバム

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  • 『私はイエスがわからない』 - I Don't Know How to Love Him (1971年)
  • 『ヘレン・レディ』 - Helen Reddy (1971年)
  • 『アイ・アム・ウーマン』 - I Am Woman (1972年)
  • 『ロング・ハード・クライム』 - Long Hard Climb (1973年)
  • 『愛の歌集』 - Love Song for Jeffrey (1974年)
  • 『フリー・アンド・イージー』 - Free and Easy (1974年)
  • 『ブルーバード』 - No Way to Treat a Lady (1975年)
  • 『愛の調べ』 - Music, Music (1976年)
  • 『愛の囁き』 - Ear Candy (1977年)
  • 『太陽に歌って』 - We'll Sing in the Sunshine (1978年)
  • 『私はレディ』 - Reddy (1979年)
  • 『愛をこの手に』 - Take What You Find (1980年)
  • 『プレイ・ミー・アウト』 - Play Me Out (1981年)
  • 『イマジネーション』 - Imagination (1983年)
  • 『フィール・ソー・ヤング』 - Feel So Young (1990年)
  • Center Stage (1998年)
  • The Best Christmas Ever (2000年)

ライブ・アルバム

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  • 『ヘレン・レディ・ライヴ!!』 - Live in London (1978年)

日本公演

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9月16日、フェスティバルホール / 9月19日、神奈川県立県民ホール / 9月22日 - 24日、中野サンプラザ

脚注

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  1. ^ 「I Am Woman(私は女)」で全米1位を獲得、70年代に活躍したヘレン・レディの伝記映画が公開へ”. Udiscovermusic.jp (2020年8月8日). 2020年10月1日閲覧。
  2. ^ 歌手のヘレン・レディが逝去。享年78歳”. NME JAPAN (2020年9月30日). 2020年10月1日閲覧。
  3. ^ Levins, Harry (14 December 2000). “People in the News”. St. Louis Post-Dispatch. http://nl.newsbank.com/nl-search/we/Archives?p_product=SL&p_theme=sl&p_action=search&p_maxdocs=200&p_topdoc=1&p_text_direct-0=0EB052D53A6AA236&p_field_direct-0=document_id&p_perpage=10&p_sort=YMD_date:D&s_trackval=GooglePM 2008年6月16日閲覧。  – "Although Helen Reddy is Jewish, she has just released an album titled 'The Best Christmas Ever.' When an Internet interviewer cocked an eyebrow, Reddy said she had stuck to her religious beliefs by making sure that no song mentioned Jesus."
  4. ^ Jeff Jarvis (16 May 1983). “Tug-of-war for a 10 year-old”. People. http://www.people.com/people/archive/article/0,,20084995,00.html 20 March 2015閲覧。 

外部リンク

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