コンテンツにスキップ

「鶴見祐輔」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
YukkeBot2 (会話 | 投稿記録)
m clean up + リダイレクト回避, Replaced: 東京帝国大学東京帝国大学
10行目: 10行目:
== 主要な著書 ==
== 主要な著書 ==
*(翻訳)『ビスマーク英雄天才史伝』[[講談社]]、[[1935年]]
*(翻訳)『ビスマーク英雄天才史伝』[[講談社]]、[[1935年]]
*(翻訳)『[[プルターク]]英雄伝』 潮文庫全8巻 品切れ
*『母』講談社、[[1929年]]
*『母』講談社、[[1929年]]
*『ナポレオン』(文庫)[[潮出版社]]、[[1969年]]
*『[[バイロン]]』
*『[[ナポレオン]]』(文庫)[[潮出版社]]、[[1969年]]


== 関連書籍 ==
== 関連書籍 ==

2009年3月19日 (木) 05:49時点における版

鶴見 祐輔(つるみ ゆうすけ、1885年1月3日 - 1973年11月1日)は、日本官僚政治家著述家岡山県群馬県出身という説もある)生まれ。

来歴・人物

岡山中学旧制一高東京帝国大学法科大学(現在の東京大学法学部)を卒業。内閣拓殖局、鉄道省運輸局総務課長を経て、1924年に退官。その後、1928年衆議院議員に当選。小山邦太郎らとともに明正会結成に参画した。

1930年総選挙に落選したが、1936年に政界に返り咲いてからは立憲民政党に所属した。米内内閣で内務政務次官に就任。翼賛政治会および大日本政治会の顧問としても活躍。この間、太平洋問題調査会日本支部の中心メンバーとして、日米間の民間外交に大きく貢献、また1938年に設立された国策機関・太平洋協会においても運営の中心となった。国際会議で難しい内容の議論でさえ通訳は無用とされた英語の達者な人物でありスケールの大きな率直な人柄は周囲の信頼を集めた。第二次世界大戦後、日本進歩党幹事長に就任するも、公職追放の憂き目に遭う。追放解除後、1953年参議院議員に当選し1期務めた。第1次鳩山内閣では厚生大臣に就任した。

妻・愛子は後藤新平の娘であり、愛子との間に鶴見和子社会学者)・俊輔哲学者)姉弟がいる。人類学者鶴見良行は甥(弟・憲の子)にあたる。歴史学者鶴見太郎は孫。

主要な著書

関連書籍

外部リンク


先代
草葉隆圓
厚生大臣
第29代:1954年-1955年
次代
川崎秀二