コンテンツにスキップ

成重光真

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
印刷用ページはサポート対象外です。表示エラーが発生する可能性があります。ブラウザーのブックマークを更新し、印刷にはブラウザーの印刷機能を使用してください。
成重光真
なりしげ みつま
生年月日 1898年9月23日
出生地 日本の旗 日本 大分県西国東郡
(現大分県豊後高田市)
没年月日 1980年10月4日
出身校 小倉工業学校機械科卒業
(現福岡県立小倉工業高等学校)
前職 鉄道省門司鉄道局技手
現職 日本電機鉄工社長
所属政党 (日本社会党→)
(社会革新党→)
協同党

選挙区 旧福岡4区
当選回数 1回
在任期間 1947年4月 - 1948年12月23日

当選回数 2回

小倉市会議長

小倉市会副議長

小倉市会議員
当選回数 4回
テンプレートを表示

成重 光真(光眞、なりしげ みつま、1898年明治31年)9月23日[1] - 1980年昭和55年)10月4日[2])は、大正から昭和期の鉄道技術者、労働運動家、実業家政治家衆議院議員、小倉市会議長。

経歴

大分県西国東郡、のちの真玉村[3]真玉町を経て現豊後高田市)で、代々庄屋を務めた成重家に生まれる[3]。実家が破産し一家で小倉市に移った[3]。1918年(大正7年)小倉工業学校(現福岡県立小倉工業高等学校)機械科を卒業した[2][3]

大連に渡り、大連機械、山東鉄道(膠済線)で勤務し、同鉄道従業員組合長を務め[3]、1923年(大正12年)山東鉄道が中国に還付され帰国した[3]鉄道省門司鉄道局技手に任官し小倉工場に配属された[2][3]。現業委員会小倉支部長に3期在任[3]。1932年(昭和7年)現職のまま小倉市会議員に当選して4期在任し、同副議長、同議長も務めた[2][3]。また福岡県会議員にも選出され2期在任した[2][3]

1939年(昭和14年)小倉工場鍛冶職場長で鉄道省を退職[2][3]。鉄道省、西日本鉄道の車輛下請会社・九州車輛を設立して取締役社長に就任[2][3]。その他、九州合同製器専務取締役、小倉東映会館取締役なども務めた[2]

1947年(昭和22年)4月、第23回衆議院議員総選挙福岡県第4区から、日本社会党公認で出馬して当選し[3][4]、衆議院議員に1期在任した[2]。社会党小倉支部長を務めたが、社会党を離党し社会革新党の設立に参画した[3]

1955年(昭和30年)小倉市長選挙に立候補したが林信雄に敗れた[3]。同年8月、九州車輛会長を退任し[3]、日本電機鉄工を設立して社長に就任した[2][3]

国政選挙歴

著作

  • 『市会の裏面相 : 小倉市未曽有の難問題青果市場と白崎デパートの真相』オトバ印刷出版部、1936年。

脚注

  1. ^ 『第三回国会 衆議院議員名簿』30頁。
  2. ^ a b c d e f g h i j 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』685頁。
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 『ふるさと人物記』407-408頁。
  4. ^ a b 『衆議院議員総選挙一覧 第23回』534頁。
  5. ^ 『国政選挙総覧 1947-2016』350頁。
  6. ^ 『国政選挙総覧 1947-2016』351頁。

参考文献

  • 『第三回国会 衆議院議員名簿』衆議院公報附録、1948年。
  • 衆議院事務局編『衆議院議員総選挙一覧 第23回』衆議院事務局、1948年。
  • ふるさと人物記刊行会編『ふるさと人物記』夕刊フクニチ新聞社、1956年。
  • 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 『国政選挙総覧:1947-2016』日外アソシエーツ、2017年。