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2009年11月24日 (火) 10:18時点における版
文学 |
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作家 |
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今 東光(こん とうこう、1898年3月26日 - 1977年9月19日)は、天台宗僧侶(法名 今 春聴[1])、小説家、参議院議員。新感覚派作家として出発し、出家後は住職として住んだ河内や東北を題材にした作品で知られる。
作家・評論家で文化庁長官を務めた今日出海は弟。儒学者の伊東梅軒は母方の祖父。医師で第8代弘前市長や衆議院議員を務めた伊東重は母方の伯父。国家主義者の伊東六十次郎は従弟。外交官の珍田捨巳は遠縁にあたる。
経歴
新進時代
横浜市伊勢町(野毛山・伊勢山皇大神宮下)にて代々津軽藩士の家系の父武平、母綾の間の3人兄弟の長男として生まれた。四弟が生れたが夭逝。父が日本郵船会社の船長職にあったため[2]、幼年・少年期を小樽・函館・横浜・大阪と転じ、10歳より神戸で育つ。関西学院中学部を第3学年の1学期の終わりで諭旨退学になった後、兵庫県立豊岡中学校に転校するも地元の娘と恋愛したため、素行が悪いとされて退校処分を受ける。こののち正規の教育を受けることなく、本人の記すところに拠ると「以後独学」とある。
1915年、上京して小石川茗荷谷の伯父の家に寄食し、「太平洋画会」「川端画塾」に通い、画家を目指しながら文学も志し東郷青児、関根正二らと親交を結び、生田長江に佐藤春夫を紹介される。東郷、佐藤春夫と第6回二科展に油彩を出品するも選に入らず絵筆を折る。またこの頃東郷のとりもちで、燕楽軒で女給をしていた宇野千代とも短期間交際した。1917年11月、室生犀星の詩誌「感情」に詩篇「父の乗る船」掲載、1918年秋、駒込佐藤春夫宅で谷崎潤一郎に遇い、以後生涯師と仰ぐこととなった。谷崎の非常勤無給秘書を務めながら、1920年、一高寮で知り合った川端康成、鈴木彦次郎らと交友を深め一高のモグリ学生となり「盗講」と称し、芥川龍之介の勧めに塩谷温博士の中国古典講義を聴講した。
1921年、川端の強い推薦により、ともに第6次「新思潮」の発刊に同人として参加。『支那文学大観』の刊行に際しては「桃花扇」「牡丹亭」の訳出を担当し、帝大生の論文の代筆も引き受けるほどの学殖だった。1922年秋『新潮』に発表した随筆「出目草子」を認められて菊池寛の訪問を受け『文藝春秋』創刊に参画。その後石浜金作らと新進作家による「文芸時代」創刊に参加し、1924年「軍艦」、1925年「痩せた花嫁」などを発表、1924年創刊の『苦楽』に発表した「朱雀門」も高く評価され、新感覚派文学運動の作家としての位地を得る。しかし菊池寛が『文学講座』の刊行に際して東光が正規の文学士ではないという理由から執筆メンバーから外し、また『文藝春秋』1924年11月号に掲載した「文壇諸家価値調査表」というゴシップ記事(執筆は直木三十五)に腹を立てて反駁文を『新潮』に掲載、これらのことをきっかけに激しく菊池寛ら「既成文壇の権威」と対立し袂を別ち、「文芸時代」も脱退。新潮社の中村武羅夫らによる「不同調」に参加すると同時に、神楽坂・白銀町に文党社を興し同人誌「文党」を創刊。村山知義が表紙画を担当、サトウハチローらが参加し、参加者がプラカードをぶら下げて「文党」の歌を歌いながら街頭を練り歩くなどもした。「苦楽」に掲載した「異人娘と武士」は阪東妻三郎プロダクション第1回作品として映画化されて大当たりし、この縁で阪妻プロの顧問となって、一時京都嵯峨野にも住む[3]。また関東大震災の時に一緒に逃げ歩いた、元女優の人妻とのちに結婚する。1925年に処女作品集『痩せた花嫁』を出版し好評を受け、雑誌からの執筆依頼も増える。
1927年芥川龍之介の自殺に遭い、この頃より出家を志す。プロレタリア文学にも関心を強め、新感覚派の片岡鉄兵、鈴木彦次郎らとともに「左傾」を声明し、1929年にプロレタリア作家同盟に参加、作家同盟の機関誌『戦旗』に戯曲「クロンスタットの春」、書き下し長篇として南部藩の百姓一揆を題材にした『奥州流血録』などを発表。プロレタリア大衆文学の先駆的作品とされる[4](ただしこの作には代筆者があったという説が有力)。また、映画の関係から、日本プロレタリア映画同盟(プロキノ)の初代委員長や、映画従業員組合の委員長もつとめていた[5]。しかし、妻フミ子の嫉妬と独占欲により文学関係者との交際を妨害されたことや、左翼運動の中での軋轢が決定打となって次第に文壇を去る。この時期、妻の実家がある茨城県大花羽村、鬼怒川の辺に書院を建て独居していたが、同地の古刹、天台宗 正覚山蓮華院安楽寺(現茨城県常総市大輪)住職、弓削俊澄僧正と知遇し私淑、ここでも非常勤私設秘書を買って出た。
出家
1930年10月1日、金龍山浅草寺伝法院で大森亮順大僧正を戒師として出家得度、天台法師となり「東晃」と号した[6]。また「戒光」とも号した(このころのペンネームか)。比叡山延暦寺戒蔵院に籠り、木下寂善僧正のもと三ヶ年の修行。
1933年8月、四度加行(しどけぎょう)、1934年3月、天台宗の僧侶養成機関、比叡山専修院(現在の叡山学院専修科)を卒え、検定試験に合格。准教師となって安楽寺に下り[7]、この間『史外史伝 祇王』『僧兵』などを纏め刊行した。1936年「日本評論」に「稚児」を発表、評価の少ない中で川端康成は「東光さんは健在ですね」と日出海に語った[8]。前後して強度の心臓肥大症を患い生死を彷徨い、秘教義や易学の研究に勤しんだ。静養の明けた1941年1月31日、権律師春聴として岐阜県郡上郡嵩田村、天台宗大日坊(長瀧寺の末寺)住職に任ぜられ赴くが、戦時下の宗教行政(宗教団体法)に阻まれ復興ならず、易学書『今氏易学史』を著し、神智学協会『神秘的人間像』(C・W・リードビーター僧正原著)を訳出、『易学史』は殷代からの史書で日本で初めての本格的な研究書として高い評価を受け、北京大学でも紀要が刊行された。古美術関係の著述もあり、華北交通の顧問としてしばしば中国大陸にも赴いた。佐渡に渡り取材した『順徳天皇』は戦時下、唯一の大著である。この時代の交友関係に、青山圭男、鳥海青児・美川きよ夫妻があった。
1943年11月、ようやくに小康を得たことを機に発心し、顕密両教弘通(けんみつ りょうぎょう ぐつう)の勝地、伝法灌頂の道場として発展した、関東・奥羽の天台宗中心道場、茨城県真壁郡黒子村(現筑西市)東睿山千妙寺に上り、金剛寿院灌室にて入壇、「灌頂」を履修、天台宗伝燈の「三昧流」伝法を修めた。
戦時中は渋谷区穏田(現神宮前)に住み、出版書肆・文耀書院や易学の結社「天台閣」を興すなどし、根岸・聖恩教会(本門法華宗)長田龍省との親交を深めた。1945年5月25日の空襲で2万5千冊の書を焼亡、新進作家として活躍した時代の交友録、諸作家や友人たちとの書簡資料、貴重な仏書史料等も焼失したという。当時北多摩郡調布町二本松にあった軍需工場、昭和鍛工(戦車のキャタピラ等を製造)付属青年学校の講師を勤めていたことから、調布町飛田給の同社宅に疎開した。同じころ、妻フミ子が離婚を申し出た。
戦後1946年、母綾の秘書役を務めていた佐倉市志津の旧家の人、蜂谷清(きよ)と再婚。かつて1936年「日本評論」に発表の「稚児」を、稿を革たに1947年2月に谷崎潤一郎序文、鳥海青児装丁を得て刊行、出版元の金沢某は仲間内で「カナチン」と称ばれる印刷用紙ブローカーの闇屋然であったという。この時期に特筆すべき労作として、1936年に死去した父武平の遺稿等を母とともに修訂、編纂した涅槃論の大冊「神智の門」があって('47年8月16日、武平忌に脱稿)、上田光雄主宰の光の書房から刊行予定であったが実現を見ず、後ち二度にわたり翻刻連載が試みられた。
1948年9月、富田常雄主宰「日本文庫」に2千枚の長編を構想「悪童」を連載した。稿料は月5千円であったという(夫人談)。亡父の墓所多磨墓地はじめ北多摩近在を下駄一足で歩き回り、沈潜・雌伏の時代とはいえ、近藤勇、新撰組に関するもの等、小品50数編が生れた。同時期、フィリピンから復員した今日出海が、1945年11月、文部省社会教育局文化課長、同芸術課初代課長となった。敗戦の翌年、1946年に開催された「第1回芸術祭」の立案には、小泉清(洋画家:小泉八雲の三男)に呼びかけるなどし、積極参画したという(本人談)。
調布は「東洋のハリウッド」とも称された映画の町で、出家前に阪東妻三郎プロダクション顧問や、全日本映画従業員組合書記長、日本プロレタリア映画同盟委員長などを務めていた関係もあって、飛田給の草庵には多くの映画人が訪れた。時代は1948年の東宝争議の真っ只中であり、東宝、新東宝、独立プロの関係者が出入りしていたという。
1950年秋から一年間、春日大社、四天王寺に赴き易学を講義、1951年9月、天台宗総本山延暦寺座主の命により大阪府八尾市中野の天台院の特命住職となり西下する。天台院は当時檀家が30数軒の貧乏寺であったが、この再建に成功し、また貝塚市の水間寺、安養寺、素門庵などの寺院経営を手がけて、2年後に大僧都となる。同時期、河上徹太郎、伊藤整らが大正期「新感覚派」作家の雄としての東光を回想、高見順も『昭和文学盛衰史』にその存在を特筆した。天台院主として春聴上人は1952年5月1日、紫雲山天台院に晋山した。沼田に囲まれた河内八尾の鄙びた小庵への入山であったが、春日大社宮司・水谷川忠麿(近衛文麿・近衛秀麿の弟)、四天王寺・出口常順管長の列座、雅楽伶人、職衆の先導に村人は度肝を抜かれ、「オイ。ワレ。こんどの和〈オ〉っさん(和尚さんの意)。エライ、ヤマコ張っとる《ペテン師》やナイケ。」などと噂し合ったという。摂河泉の古代道を渉猟し、檀家信徒と接する衆生教化の日々の中に、河内人の気質、風土、歴史への理解を深くし、「河内はバチカンのようなところだ」「歴史の宝庫だ」と、作家魂が蘇生する。のちに文壇復帰のきっかけとなる「闘鶏」を取材執筆しながら、「ケチ(吝嗇)・好色・ド根性」といった河内者の人間臭と、土俗色の色濃い河内地方の方言や習俗に親しんでいった。のちにエンターテイメント作家としての代表作のひとつとなる『悪名』の主人公、朝吉親分のモデルとなった、岩田浅吉との出会いもこのころであった。
文壇復帰
1953年2月「役僧」は30年ぶりに『文藝春秋』に掲載され、文芸家協会編「創作代表選集」にも収録された。『大法輪』に「天台大師」「師の御坊」、『祖国』に幕末の志士河上彦斎を描く「人斬り彦斎」を連載、「破戒無慚」「人の果て」を発表。1955年10月2日、比叡山に上山。天台宗随一の古儀、法華大会(ほっけだいえ)「広学豎義」(こうがくりゅうぎ)に臨み教学論議(僧侶の試験)を及第し阿闍梨となり、1956年1月、京都の宗教紙「中外日報」社長に就任した。
天台院を訪れた谷崎潤一郎により「闘鶏」の原稿が中央公論社に送られ、『中央公論』1957年2月号に掲載された。その前年1956年に裏千家の機関誌『淡交』に1年間連載していた『お吟さま』で第36回直木賞を受賞し、一躍流行作家として文壇に復帰する。
それまで天台院では法施への対価として、宝前に河内産の茄子や胡瓜、ときに軍鶏肉があがるのどかな朴訥としたものだったが、東光和尚ブームの到来に一夜にしてバタくさいものになったと夫人は語った。「だって、それまでお布施ったって30円くらいでしょ。それが印税が入ってくるのですものね。」「お寺の修理だ、復興だって出てゆく。本山から給料が出るわけじゃないし。ネ。」「私が好きな作品は『悪童』。一番いい時代でした。」「河内もあのころのままだったらよかったのに。ね。」「毎日、毎日が面白かったのよ。言葉なんてちっともわからないのにね。」「東光は。オイ。今日はいい日だな。いい日だな。って言うけれど、何もいいことなんてないのよネ(笑)。檀家の話は、ケンカだ。バクチだ。ヨバイだ、ジョロカイだって、そればかりでしょ(笑)。放送局(BK:NHK大阪)が取材に来て録音してっても放送できないっていうのヨ(笑)。」「それでいて、夜中になると、そのテープ、みんなで聞いてはゲラゲラ笑ってるんだって(笑)。あのテープ、どこかに残ってないでしょうかね。」(「驚きももの木20世紀」「知ってるつもり」等、民放取材にこたえての夫人談)
作家活動再開後は「山椒魚」「春泥尼抄」「悪名」「こまつなんきん」「河内風土記」など、八尾周辺の河内地方に取材した、一連の「河内もの」を立て続けに発表し、舞台化、映画化も相次いだ。辺鄙な農村八王子市恩方に篭り第2回毎日出版文化賞を受賞したきだみのるの「気違い部落周游紀行」と、上方河内在の異色の僧が描く「河内もの」は東西の雄と評され衆目を蒐めた。大宅壮一、福田定一(司馬遼太郎)、村上元三、寺内大吉をはじめ、天台院を訪れる識者は多士済々、柳原白蓮の姿もあった(本人談)。文学講座も開かれ「日本書紀」の講義では、大和・河内の地理にもとづく、在郷ならではの「オモロ講座」が展開した。(鈴木助次郎談)
1957年に東京・京都で開催された国際ペン大会京都大会では、日本ペンクラブ会長川端康成を援け、関西財界人に呼びかけ大会を成功に導いた。その流れは1960年、山田耕筰、和田完二らとの「大阪文化協会」設立、第1回大阪文化まつり開催となってゆく。1958年には帝塚山学院、四天王寺学園、相愛女子短期大学講師として、比較文学を講義。
この時期の作品として、古代史や河内キリシタン伝承に取材した「弓削道鏡」「生きろマンショ」、また「はぜくら(支倉常長)」「東光太平記(楠正成)」など歴史小説を数多く創作。印税を注ぎ込んでは、特命住職として次々に兼務する荒廃した古刹の復興に身を挺しながらも「オレは大工坊主みたいなものだよ」と周囲を笑わせ、ケムに巻いていた。取材に赴く先々、また執筆の途次、杖を、筆を留め、しずかに読経することしばしばであったという[9]。『悪名』は1961年に勝新太郎・田宮二郎出演の映画となりシリーズ化されるほど大ヒットした。
中尊寺貫主時代
僧侶としては僧正となり、1964年春、エジプトからヨーロッパ各国巡錫の旅では、4月28日、バチカン市国ローマ法王庁にて、教皇パウロ六世に謁見、バチカン放送局の放送機材を松下幸之助が寄贈したこともあって日本人初の放送を行った(伝)。1966年5月中尊寺貫主に晋山、国宝金色堂の昭和大修理に努めた(1968年5月、落慶大法要執行)。谷崎潤一郎、川端康成、梶山季之の死去に際しては戒名を贈り、葬儀の導師を勤め、弔辞を読んだ。同じ天台宗僧侶である弁慶を描いた『武蔵坊辨慶』は、参議院議員活動による中断を挟んで1964-65年、及び76-77年に新聞連載されたが、死去により未完。また両親が津軽出身であることから自らを蝦夷の末裔「東夷ノ沙門(とういのしゃもん)」と称し、平泉・中尊寺を創建した奥州藤原氏を描いた歴史小説『蒼き蝦夷の血 藤原四代』を1970年から執筆するが、藤原清衡、藤原基衡、藤原秀衡の三代までを描いたところで死去して、未完となっている。1973年の瀬戸内晴美の中尊寺での出家得度に際しては、師僧となり「春聴」の一字を採って「寂聴」の法名を与えた。
1968年には参議院議員選挙全国区に自由民主党から立候補、当選し1期務めた。選挙時には川端康成が選挙事務長となって運動に協力、街頭で応援演説も行った。議会での最初の発言は「自衛隊は人を殺すのが商売なのだから、安心して殺せ」であり、型破りな性格と発言はつとに有名だった。「毒舌説法」でテレビや週刊誌でもコメンテーターとして人気があり、1973年からは週刊プレイボーイの過激な人生相談「極道辻説法」でも知られた。生来の「喧嘩屋」でその特異な人物像から各界に多大な影響を及ぼしたため梶原一騎や笹川良一と並び少々の誇張も含め「昭和の怪人」として評されることが多い。
晩年
天台宗による「一隅を照らす運動」が1969年に始まると、その初代会長を勤め(1973年まで)、そのための辻説法も行った。
晩年には、S字結腸癌を患い国立癌センターで2度の手術を受けるも、比叡山・東塔の再建(さいこん)、中尊寺諸堂の整備、延暦寺における長講会(ちょうごうえ)、坂本・東南寺における「戸津説法」講師(こうじ)勤仕、岩手県浄法寺町の荒廃に瀕した古刹、八葉山天台寺特命住職晋山、復興に着手、あらたな時代に向けての、天台教学改革の提唱など、聰慧超脱、稀代の傑僧躍如たるものがあった。加えて、闘病、静養もままならぬなか、ヨーロッパ、ハワイと錫を巡らし、過密なスケジュールながらも、「作家は、ジャーナリズムに殺されてこそ本望」「ボクは生涯現役だよ」と果敢に執筆をかさね、テレビ出演、講演、口述を続けた。1977年6月には体調を著しく崩し再々度の入院、9月19日、急性肺炎を併発し、千葉県四街道市国立下志津病院で示寂(遷化)。世寿79歳。寛永寺根本中堂・瑠璃殿における本葬儀には、東叡山輪王寺門跡、杉谷義周大僧正が、法号「大文頴心院大僧正東光春聴大和尚(だいぶんえいしんいんだいそうじょうとうこうしゅんちょうだいかしょう)」を撰み大導師を勤めた。弔辞は、前夜パリから駆けつけた東郷青児が「十七歳の東光ちゃんは」と泪の裡に呼びかけ、椎名悦三郎が続き、皇太子からの供花、福田赳夫首相の献香、宗教界、文壇、政界、財界、芸能界ほか多数の参座者が延々と続いた。竹中労、戸川昌子、安岡章太郎、藤本義一、田宮二郎らや、一般読者の青年も数多く参列した。
墓所は東京都台東区上野寛永寺第三霊園、柴田錬三郎の撰文による文学碑があり、中尊寺、天台寺、天台院、比叡山霊園(堅田)に分骨納骨、それぞれに供養塔が建てられ、三回忌、七回忌…と年忌が営まれた。寛永寺における折々の偲ぶ会には、松本清張、陳舜臣も駆けつけた。
なお文壇復帰から旺盛な作家活動の再開や宗教活動を守り支えた夫人清は、2008年9月19日という夫の祥月命日と同月同日死去。「慈観院闊朗清妙大姉」の法号は、東叡山寛永寺一山圓珠院、杉谷義純住職(天台宗元宗務総長)の撰による。大和尚をして「この世で一番畏いのは、かあちゃんだよ!」と言わしめた、愛らしく剛い人柄そのものを表す。千葉県佐倉市での葬儀には、杉谷師が導師を勤め、中尊寺、天台寺、天台院等諸師による読経、法弟子瀬戸内寂聴尼も列座、法類、法縁が随喜し、多数の有縁の士が参列した。献花には福田みどりの名もみられた。
作品
『お吟さま』は、千利休の娘の高山右近への愛と生き様を、河内出身の侍女の語りによって、一人の女の哀しい生涯が絢爛たる桃山文化を背景に描かれている。直木賞選考会では、選考委員達よりも文壇では先輩でもあり、今さらという意見もあったが、大佛次郎は「老熟した作家のものと称せざるを得ぬ」と評し、吉川英治、木々高太郎、川口松太郎らの支持も得て受賞する。
この年の『中央公論』2月号に掲載した短篇「闘鶏」は、岩田浅吉に教えられた闘鶏の魅力に取り憑かれて作家としての情熱を取り戻し、数年かけて取材執筆したもので、闘鶏を通して河内の風土を描いており、平野謙、高橋義孝はこの時代の秀れた代表作として推しているなど高く評価されている。また河内の尼僧の苦悩と生き様を描く『春泥尼抄』は映画化もされて話題になり、尼僧ブームを巻き起こした。
自伝的長編小説として『悪童』『悪太郎』がある。
著作リスト
- 痩せた花嫁 金星堂 1925年(短編集)
- 愛染物語 至玄社 1927年
- 奥州流血録 先進社 1930年
- 僧兵 政教書院 1934年(のち『山法師』に改題)
- 今氏・易学史 紀元書房 1941年(序文:谷崎潤一郎・佐藤春夫・加藤大岳)
- 順徳天皇 有光社 1943年
- 稚児 鳳書房 1947年
- 人斬り彦斎 東京創元社 1957年
- みみずく説法 光文社 1957年
- お吟さま 淡交社 1957年
- 春泥尼抄 講談社 1958年
- 東光金蘭帖 中央公論社 1957年
- 愛染地獄 浪速書房 1958年
- 悪太郎 中央公論社 1959年
- 弓削道鏡 文芸春秋 1960年
- 悪名 新潮社 1961年
- 東光毒舌経 おれも浮世がいやになったよ 未央書房 1966年
- 東光太平記 鹿島出版 1972年
- 毒舌日本史 文藝春秋 1972年
- 蒼き蝦夷の血 新人物往来社 1972年
- 泥鰌おっ嬶ァ 番町書房 1974年
- おゝ反逆の青春 平河出版社 1975年
- 吉原哀歓 徳間書店 1976年
- 極道辻説法 集英社 1976年
- 続極道辻説法 集英社 1977年
- 最後の極道辻説法 集英社 1977年
- 武蔵坊弁慶 学習研究社1977-78年
- 十二階崩壊 中央公論社 1978年(絶筆)
- 毒舌・仏教入門 祥伝社 1990年(1975年の東南寺で行った5日間の戸津説法の全文)
翻訳
- リイド・ピーター『神秘的人間像』文曜書院 1940年
作品集
- 『今東光名作選集』(全7巻)徳間書店 1965年
- 『こまつなんきん』『弓削道鏡』『河内カルメン』『僧房夢』『愛染時雨』『河内草枕』『尼くずれ』
人物・エピソード
- 航研機パイロットの藤田雄蔵とは幼なじみであり、よく二人でグライダーのようなものを作って遊んでいたという。横浜市の老松小学校の同級生尾崎士郎は東光にのべつ殴られて泣かされ、故郷岡崎に逃げ帰ったというが、東光は全く憶えておらず、士郎の作り話だったかもしれないと述べている[10]。また関西学院の後輩稲垣足穂を高く評価していたが、足穂も在学中に今から殴られたことがあるらしく、友人が「今東光のところへ遊びにいこう」と言っても「あいつから殴られた恨みが消えないんで行かねえ」とへそを曲げていたというが、東光は「オレなぐった覚え、ねえんだよ」とすっかり忘れていた模様。(「極道辻説法」より)
- 東京で画の勉強を行っていた際、伯父の使いで森鴎外の観潮楼へ『渋江抽斎』の執筆資料を届けたこともあるという。ある音楽会の席上、武者小路実篤の紹介で夏目漱石とも一度対面している。
- 谷崎の秘書を務めていた当時は意図的に柔弱な文学青年の身なりをしてカフェに入り、チンピラに言いがかりをつけられるのを待ち、期待通り喧嘩を売られると表に出て相手を半殺しの目に遭わせ、「やい。文学をやってる人間は皆な優さ男の意気地無しと思うなよ。俺みてえに喧嘩が三度の飯よりも好きな奴もいるんだ。見損うなよ」と啖呵を切っていた、という[11]。大山倍達と交際し、極真空手初段の段位を贈られたこともある[12]。「文壇諸家価値調査表」でも「腕力」の部で100点満点を与えられるなど、腕力の強さは古くから知られていた。
- 特定の出版社に縛られないで執筆する「鎖に繋がれていない犬、首輪のない犬たちの会」という作家の集まりである野良犬会を1973年に結成、会長を務めた。副会長は柴田錬三郎。事務長は梶山季之。会員には井上ひさし、黒岩重吾、瀬戸内晴美、田中小実昌、田辺聖子、陳舜臣、戸川昌子、野坂昭如、山口瞳、藤本義一、吉行淳之介といった面子が顔を揃えていた。
- テレビや雑誌で見せる型破りな姿とは裏腹に、プライベートでは静かで謙虚な人柄であったという。死の直前の主治医であった医師は、東光がガンによる苦痛をものともせず「大丈夫だ」とニコリと笑っていた姿を見て「こんなに意志の強い患者は初めて見た」と言い「テレビで見せる姿とは違って、非常に思慮深い思考をなさる人でした。ただ髪の毛はいつお剃りになっているかわかりませんが、生えてはきませんでしたね」という感想を残している。
原作映画
- 『異人娘と武士』阪東妻三郎プロダクション、井上金太郎監督、1925年、阪東妻三郎、関操
- 『春泥尼』日活、阿部豊監督、1958年、筑波久子、左幸子、岡田真澄
- 『みみずく説法』東京映画、久松静児監督、1958年、森繁久彌(東光役)、司葉子
- 『尼くずれ』大映、池広一夫監督、1968年、安田道代、三木本賀代
他多数
劇中で彼を演じた俳優
関連項目
脚注
- ^ 仏門に入った後は今春聴が戸籍名、今東光が筆名となった。自筆年譜には「午前5時、日輪と共に生る。依て父母之に命名して東光」とある。
- ^ 父武平は第一次世界大戦時に船がドイツの無差別攻撃で巡洋艦エムデンに追わたが、智略によってこれを回避した。また後年は神智学を研究していた。母綾は佐藤紅緑と小学校の同級生だった。
- ^ 当時の東大出の月収が50円だった時代に顧問料は150円。作家業を含めると1000円程の月収があったという。
- ^ 尾崎秀樹「今東光と歴史文学」(『武蔵坊辨慶(4)』徳間文庫 1985年)
- ^ 岩崎昶『日本映画私史』(朝日新聞社、1977年)による
- ^ 『仏教年鑑 1930』
- ^ 多くの年譜が安楽寺住職と記すが事実ではない。
- ^ 『東光金蘭帖』中公文庫 1978年
- ^ このような作家の宗教者としての内面、深層に触れることなく、直木賞作家=大衆小説作家、通俗作家として、皮相、類型的解釈で摘み取る読者、文壇的関係者は多く、八尾をはじめ河内・大阪周辺では、東光の小説が河内を有名にするどころか「柄の悪い場所」というネガティブな印象を全国に定着させたとして今でも嫌う向きがある。八尾市では何度か彼の彫像の計画があったが、上記の理由で住民の同意を得られず成立していない。
- ^ 今東光『十二階崩壊』(中央公論社、1978年)p.73
- ^ 今東光『十二階崩壊』(中央公論社、1978年)pp.150-151
- ^ 今東光『毒舌 身の上相談』pp.201-203(集英社文庫、1994年)