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== 8代 ==
== 8代 ==
8代'''中埜 又左エ門和英'''([[1950年]]([[昭和]]25年)[[9月18日]] - )が、現在の当主。[[慶應義塾大学]]商学部卒。[[1973年]](昭和48年)4月に(株)中埜酢店入社、[[2002年]](平成14年)、7代目中埜又左エ門社長の死去に伴ない、同年[[5月24日]]に代表取締役社長に就任。翌[[2003年]](平成15年)[[6月24日]]に8代又左エ門を襲名したが<ref name="mizkan08" />、元の名である和英(かずひで)を残して又左エ門和英となる。[[2014年]](平成26年)5月に再び中埜和英に改名した<ref name="mizkan08kaimei" />。
8代'''中埜 又左エ門和英'''([[1950年]]([[昭和]]25年)[[9月18日]] - )が、現在の当主。[[慶應義塾大学]]商学部卒。[[1973年]](昭和48年)4月に(株)中埜酢店入社、[[2002年]](平成14年)、7代目中埜又左エ門社長の死去に伴ない、同年[[5月24日]]に代表取締役社長に就任。翌[[2003年]](平成15年)[[6月24日]]に8代又左エ門を襲名したが<ref name="mizkan08" />、元の名である和英(かずひで)を残して又左エ門和英となる。[[2014年]](平成26年)5月に再び中埜和英に改名した<ref name="mizkan08kaimei" />。
[[2019年]](令和元年)ミツカンお家騒動で報道番組にて一族経営の実態が明るみに出た<ref>{{Cite web|title=“お酢のミツカン”でお家騒動 娘婿が実名告発|url=https://bunshun.jp/articles/-/12094|website=文春オンライン|accessdate=2019-06-04|last=「週刊文春」編集部}}</ref>。
[[2019年]](令和元年)ミツカンお家騒動で報道番組にて一族経営の実態が明るみに出た<ref>{{Cite web|title=“お酢のミツカン”でお家騒動 娘婿が実名告発|url=https://bunshun.jp/articles/-/12094|website=文春オンライン|accessdate=2019-06-04|last=「週刊文春」編集部}}</ref>。2020年、[[旭日中綬章]]受章<ref>『官報』号外第230号、令和2年11月4日</ref>。


== 脚注 ==
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2020年11月4日 (水) 06:13時点における版

中野(中埜) 又左衛門(なかの またざえもん)は、尾張国半田(現在の愛知県半田市)の醸造家で、ミツカングループの創業家・経営者である中野又左衛門家の当主が受け継ぐ名[1]

1804年(文化元年)に同家を興した初代中野又左衛門によって酢の醸造がはじめられた[2]。明治期の4代目より苗字の表記が中埜[3]、そして7代目で名の表記を又左エ門とした[4]。7代目は半田市名誉市民[5]

2014年(平成26年)現在の当主は8代目に当たり、2003年(平成15年)6月に襲名した際に中埜又左エ門和英[6]となったが、2014年(平成26年)5月に再び元の名前である中埜和英に改名したため[7]、今のところ中埜家で又左衛門(又左エ門)を名乗るものはいない。

初代

初代中野 又左衛門1756年宝暦6年) - 1828年文政11年)は、小栗喜左衛門家の長男として誕生する。半田の酒造家・中野半左衛門家に養子として入り、1804年文化元年)に分家して中野又左衛門家を興した。

江戸寿司流行を見た又左衛門は、の需要を見込み、半田で酒造業のかたわら、酒粕を原料とした「粕酢」の製造をはじめた[2]。これがミツカングループの創業とされている。1816年(文化13年)に2代目に酢の醸造業を譲り、自らは酒造に専念した[2]

2代 

 文化13年(1816年)に2代又左衛門を襲名した太蔵は、初代の希望もあって、当初から酢造りに専念した。2代目は、周囲の期待に応えて粕酢の製造、販売を大きく伸ばし、今日のミツカングループの基礎を確立することになる。しかし、その道のりは決して平たんではなかった。 文政4年(1821年)隣村の酢造家が岡崎藩における酢の独占販売権を得、中野は岡崎城下での販売が禁止された。2代目はこの難局を乗り切るべく、尾張藩御用達であった一族の中野半六に支援を要請するとともに、岡崎藩と粘り強く交渉を重ね、販売権を取り戻すことに成功する。その後は、逆に三河・岡崎の独占権を確保する一方で、最大の市場である江戸市場を有力老舗問屋であった森田半兵衛に一任して販売の強化を図った。また、増大する販売量に対応して醸造蔵の増改築も推進した。家督継承から2年後の文政元年(1818年)には770両であった酢の売り上げが、天保8年(1837年)には3,000両に拡大。純利益も100両程度から1,000両を超えるまでになっていた。

 その間に、2代目は私設水道の敷設工事も手がけている。酢造りには酒造りと同様に安定した水の確保が欠かせない。文政4年(1821年)から工事が着工され、共同井戸の隣に新しく井戸を掘り、木製の水道管(木樋)で醸造場まで水を引くというものだった。

 さらに、2代目は、酒粕を3年間熟成させた最上級の酢を「山吹」と命名し、江戸への専売品として売り出している。その頃、半田中野の酢は丸勘と呼ばれるようになっていたが、江戸では尾張からの粕酢には、すべて丸勘印が付けられていた。まだ商標登録が存在しなかった時代である。二代目は特色ある酢を開発し、商品に独自の名前を付けることで、他の丸勘印と差別化を図ろうとしたのだ。それが「山吹」であり、さしづめ現代でいうところのブランド戦略の先駆けであったといえる。続いて「富貴」、「中野」などのブランドも世に送り出された。総売上の3分の1にまで届こうとしていた江戸への販売はおよそ10年後の安政元年(1854年)には、地元への販売を超えるに至る。その扉を開いたのが、2代目が自ら発案したブランド酢「山吹」だったのである。[8]

3代 

 2代又左衛門の晩年には3代目が2代目と協力し合いながら家業の拡大に努めた。その筆頭に、嘉永3年(1850年)から6年にかけて行われた全長約1.35kmにおよぶ新たな私設水道の敷設工事があげられる。それは、防水の技術を持つ船大工や土木工事を行う黒鍬など、半田はもとより知多半島一体の技術を動員した一大プロジェクトであった。工事は、地域住民の雇用はもとより、周辺地域も含めた経済に大きな波及効果をもたらした。当時の水道のほとんどが城下町水道の時代である。藩が行うような公共事業的な性格を持つ工事に莫大な私財を投じて自分たちの水道を造るということは、極めて希有なことであった。

 安政元年(1854年)、3代目は下半田村の庄屋を拝命した。その年、「安政の東海大地震」が起こり、さらに翌年には暴風雨と大洪水に見舞われるなど、半田一帯は未曾有の被害を被っている。3代目は公人としての務めを果たすべく、村人の先頭に立ち復興に尽力した。災害で職を失った村人たちの雇用を確保する目的で、自ら資金を投入しての大工事も積極的に行った。このときに手がけられたのが、現在も残る「半田運河」と「中埜宅本邸(山崎邸)」である。

 また3代目は地域に貢献する一方で、旧来の販売手法を刷新するなど、気鋭の事業家としての手腕も発揮した。当時は価格の決定権を船頭にゆだねる船手売りが主流だったが、高級酢「山吹」が安く売られてしまうという危険性をはらんでいた。そこで3代目は、地域の船頭を一人ひとり説得し、江戸市場に関しては従来からの最大得意先であった森田半兵衛以外には売らないという、現在の「特約店制度」に似た販売制度を設けた。

 また、個人経営からグループ経営への一大転換を図ったのも3代目であった。元治元年(1864年)に、酒造りの権利のいっさいを手放すことを決断。すべての酒造株を一族および手代に分割譲渡し自らは食酢醸造業に専念。事業の全体を一族関係者の共同経営にする体制を作り上げた。それは、新たな時代を見据えた改革であり、中野家にとって創業以来の大変革といえるものであった。その結果、「中野グループ」という共同経営体が生まれることになった。[9]

4代

4代中埜 又左衛門1854年安政元年) - 1895年明治28年)は、明治期の当主。小鈴谷(現在の常滑市)の醸造家である盛田家の分家から中野又左衛門家の養子に入り、1867年(慶応3年)に家督を継承。現在(2012年)も使われているミツカンの商標を定めた。また、甥の盛田善平とともに丸三麦酒醸造所を設立し「カブトビール」ブランドのビール製造業を始めるなど、異業種にも参入した[3]

5代 

 5代又左衛門は、先代が創業した丸三麦酒を株式会社化し、その社長を兼ねることになる。今もその一部が残る赤レンガの近代的なビール工場を建設。最新の醸造機械も原料も本場ドイツから輸入して、本物のビール造りにこだわった。ビール銘を「丸三麦酒」から「カブトビール」に改めた。しかし、当時のビール業界はすさまじい競争時代のまっただ中にあった。カブトビールは、日本麦酒(恵比寿)、大阪麦酒(アサヒ)、ジャパン・ブリュワリー(麒麟)、札幌麦酒(サッポロ)という大資本を向こうにまわしながらも善戦していた。 明治39年(1906年)巨大な大日本麦酒(戦後は現サッポロと現アサヒに分割)が合併により誕生するなどトラスト化の動きを見るや、5代目は一転してビール事業を売却。この先の経営難を見越して大英断を下すことになる。

 それはミツカンにとって過去にない経験であった。伝統的な酢造りの業界に、醸造業の先端を行くビールのノウハウを持ち込んだことは、決して無駄なことではなかった。 たとえば、明治33年(1900)年に建設された新工場(南倉)では、近代的な装置を導入し、徹底した機械化の第一歩を踏み出している。また、同年にドイツに醸造技術習得のため社員を派遣。その帰国を待って、明治35年(1902年)に醸造試験所を開設し、食酢醸造技術の改良にも努めている。いずれも、ビール事業を通じて得たノウハウが本業に計り知れないメリットをもたらした例といえるだろう。

 5代目は堅実守成の人であったが、現状に満足することなく、西と東の生産拠点強化にも奔走した。明治38年(1905年)には尼崎工場を設立し、関西での生産基盤を確立。そのころ、すでに中埜一族は共同出資による銀行「中埜銀行」を設立しており、一連の融資は「中埜銀行」がバックアップを行った。(中埜銀行は昭和13年に、国策により名古屋の伊藤銀行に吸収され、のちに東海銀行となった)

 さらに、関西に続き、東京においても生産基盤を確立するべく、食酢工場の共同経営に参画し、大正8年(1919年)、「丸寿合資会社」を設立した。しかし、その年、5代目は無念の死を遂げる。5代目の思いは、6代目へと受け継がれ、数年後に共同経営だった工場は中埜酢店直営の「東京分工場」となった。[10]

6代 

 5代又左衛門の息子である幸造が家督を相続したのは、五代目が死去した大正8年(1919年)だった。弱冠31歳のときである。少年期の6代目は、酢屋へ入店し、本邸に寝泊まりしていた新入の小僧たちと一緒に雑巾がけなどの雑用もこなしたという。それは、使用人の苦労も身をもって分からせたいという五代目の教育方針のあらわれでもあった。

 慶応に学んだ幸造は、明治44年(1911年)に半田に戻ってくると、中埜家の事業経営の一翼を担うようになる。世の中の主な会社が株式会社へと組織変更されていく中で、全国展開し始めた酢屋だけが個人商店のままというわけにはいかず、大正12年(1923年)に「株式会社中埜酢店」をスタート。昔ながらの経営形態にピリオドを打ち、近代的な組織への一大転換を図った。

 とはいえ、株式会社中埜酢店の船出は、必ずしも順風満帆といえるものではなかった。株式会社になった2ヵ月後には、「関東大震災」が起こり、関東方面の生産拠点であった丸寿合資会社の工場が倒壊し、関東地区で一手に販売を担っていた中井商店をはじめ、お得意先の多くが壊滅状態に陥った。しかし、立ち直りは早く、翌年には丸寿の工場を「中埜酢店大島分工場」として再興。都心部に東京支店を構え、そこを拠点に新しく特約店制度を構築し、東京・関東市場のルート開拓に全社をあげて取り組んだ。一方半田本店でも、関東大震災の年の12月に第一工場を火災で被害を被ったものの、半田第二、第三工場、尼崎工場のフル稼働で危機を乗り切った。

 昭和に入ると、6代目は大阪支店を拠点に関西および以西の販売強化を図るとともに、当時日本が進出していた台湾・朝鮮・中国本土にまで販路を拡大していった。昭和16年(1941年)には、日本は太平洋戦争に突入。戦時統制の強化により酒粕が入手困難になるという事態に直面したため、翌17年に新原料開発を担う「中埜生化学研究所」を設立した。敗戦によるダメージは大きかったが、主力の半田、尼崎はかろうじて戦火を免れたため、早期の生産再開につなげることができた。株式会社中埜酢店は、終戦日からわずか10日後には新規採用を行っていた。また、出征して帰還した元従業員の全員を再雇用するなど、人を重視する経営方針を貫いて終戦後の混乱期をいち早く乗り切った。

 6代又左衛門が生きた時代は、まさに激動の時代であったといえるだろう。しかし、どんな状況にも耐え抜くことができたのは、六代目の粘り強さもさることながら、少年期にふき掃除をした仲間たちが、6代目と一心同体で中埜酢店を支えたからにほかならない。[11]

7代 

 昭和27年(1952年)、6代又左衛門は会長になり、長男の政一(まさかず)が中埜酢店の社長に就任する。政一(まさかず)が社長になってまっ先に手がけたのは、酢の全面ビン詰め化だった。当時の酢は、昔からの樽売りが主流だったが、市場では有力メーカーの空き樽に自社の合成酢(混成酢)を入れて売るという悪徳商法が横行していた。そうしたごまかしに対処するためには、ビン詰め化が必要だった。とはいえ、全面的なビン詰め化には高額な機械の購入など、何よりも資金を確保しなければならなかった。戦後の農地解放などで、資産の大半を失っていた中埜酢店や中埜家にはそんな余裕はなく、社長自らが融資を受けるために複数の銀行を奔走したという。

 昭和29年(1954年)、ようやくオートメーションによるビン詰めがスタート。さらに、昭和32年(1956)には卓上酢びんを開発する。しかし、政一(まさかず)はそれだけでは満足しなかった。徹底した生産の合理化を推し進めるとともに、東京工場、福岡工場、大阪工場、栃木工場を次々と新設していった。

 昭和35年(1960)7代目の襲名にあたり政一(まさかず)は又左衛門を又左エ門に改めると発表し、周囲を驚かせた。「“衛”には守るという意味があり後ろ向きであるが、“エ”は工夫の“工”にも通ずる」というのは7代目の弁だが、歴史的な名前をそのまま受け継ぐのではなく「新しいミツカンを作り上げていく」という、自身への戒めの念もこめられていたのかもしれない。

 高度成長期に入ると、ミツカン酢はどんどん売り上げを伸ばしていった。昭和40年代には、「100%醸造酢はミツカン酢だけ」、「この子には、まじりけのないものを与えたい!」のキャッチフレーズで純正食品キャンペーンを展開。ミツカン酢の確かな品質と安全性を全社一丸となって訴えた。さらに、食生活の変化をいち早く捉えて、味ぽんやドレッシング、中華調味料、おむすび山などの新製品を開発し、次々に世に送り出してヒットさせていった。ミツカングループを今日の総合食品メーカーへと押し上げたのは、紛れもなく7代目の功績といえるだろう。

 また、昭和46年(1971年)にはサンキストグロワース社との提携をスタート。同52年(1977年)には「ナカノUSA」を設立。七代目は本格的な海外進出に向け、その準備を着々と進めていった。同56年に米国の食酢有力企業AICを買収して本格的なアメリカ進出をはたした。その後、東部や中西部でも買収を進め、全米有数の食酢企業となった。

 創業から200年余。ミツカンの歩んできた歴史の先には、“世界”というさらなる地平が広がっている。かつて江戸をめざした初代のフロンティア精神は、よりスケールアップして現在の8代目に確実に受け継がれている。

 第二の創業を成し遂げた改革者。大正11年(1922年)~平成14年(2002年)。享年80歳。[12]

8代

8代中埜 又左エ門和英1950年昭和25年)9月18日 - )が、現在の当主。慶應義塾大学商学部卒。1973年(昭和48年)4月に(株)中埜酢店入社、2002年(平成14年)、7代目中埜又左エ門社長の死去に伴ない、同年5月24日に代表取締役社長に就任。翌2003年(平成15年)6月24日に8代又左エ門を襲名したが[6]、元の名である和英(かずひで)を残して又左エ門和英となる。2014年(平成26年)5月に再び中埜和英に改名した[7]2019年(令和元年)ミツカンお家騒動で報道番組にて一族経営の実態が明るみに出た[13]。2020年、旭日中綬章受章[14]

脚注

  1. ^ 七人の又左衛門”. ミツカン. 2012年12月13日閲覧。
  2. ^ a b c 初代 中野又左衛門”. ミツカン. 2012年12月13日閲覧。
  3. ^ a b 四代 中埜又左衛門”. ミツカン. 2012年12月13日閲覧。
  4. ^ 七代 中埜又左エ門”. ミツカン. 2012年12月13日閲覧。
  5. ^ 半田市
  6. ^ a b (株)ミツカングループ本社の社長 中埜和英 八代 を襲名”. ミツカン. 2014年6月1日閲覧。
  7. ^ a b ミツカングループ人事異動のご案内”. ミツカン. 2014年6月1日閲覧。
  8. ^ mizkan
  9. ^ mizkan
  10. ^ mizkan
  11. ^ mizkan
  12. ^ mizkan
  13. ^ 「週刊文春」編集部. ““お酢のミツカン”でお家騒動 娘婿が実名告発”. 文春オンライン. 2019年6月4日閲覧。
  14. ^ 『官報』号外第230号、令和2年11月4日

外部リンク