コンテンツにスキップ

「中野又左衛門」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Plaideia (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
 
(20人の利用者による、間の41版が非表示)
1行目: 1行目:
'''中野(中埜) 又左衛門'''(なかの またざえもん)は、[[尾張国]]半田(現在の[[愛知県]][[半田市]])の醸造家で、[[ミツカン]]グループの創業家・経営者である中野又左衛門家の当主が受け継ぐ名<ref name="7matazaemon">{{cite web|url=http://www.mizkan.co.jp/story/matazaemon/|title=七人の又左衛門|publisher=ミツカン|accessdate=2012-12-13}}</ref>。
'''中野(中埜) 又左衛門'''(なかの またざえもん)は、[[尾張国]]半田(現在の[[愛知県]][[半田市]])の醸造家で、[[ミツカン]]グループの創業家・経営者である中野又左衛門家の当主が受け継ぐ名<ref name="7matazaemon">{{Cite web|和書|url=http://www.mizkan.co.jp/story/matazaemon/|title=七人の又左衛門|publisher=ミツカン|accessdate=2012-12-13}}</ref>。


文化元年(1804年)に同家を興した初代中野又左衛門によって酢の醸造がはじめられた<ref name="mizkan01">{{cite web|url=http://www.mizkan.co.jp/story/matazaemon/01.html|title=初代 中野又左衛門|publisher=ミツカン|accessdate=2012-12-13}}</ref>。明治期の4代目より苗字の表記が'''中埜'''に<ref name="mizkan04">{{cite web|url=http://www.mizkan.co.jp/story/matazaemon/04.html|title=四代 中埜又左衛門|publisher=ミツカン|accessdate=2012-12-13}}</ref>、そして7代目で名の表記を'''又左エ門'''とした<ref name="mizkan07">{{cite web|url=http://www.mizkan.co.jp/story/matazaemon/07.html|title=七代 中埜又左エ門|publisher=ミツカン|accessdate=2012-12-13}}</ref>。7代目は半田市名誉市民<ref>[http://www.city.handa.lg.jp/hisho/shise/gaiyo/shokai/meyoshimin.html 半田市]</ref>。
1804年(文化元年)に同家を興した初代中野又左衛門によって酢の醸造がはじめられた<ref name="mizkan01">{{Cite web|和書|url=http://www.mizkan.co.jp/story/matazaemon/01.html|title=初代 中野又左衛門|publisher=ミツカン|accessdate=2012-12-13}}</ref>。明治期の4代目より苗字の表記が'''中埜'''に<ref name="mizkan04">{{Cite web|和書|url=http://www.mizkan.co.jp/story/matazaemon/04.html|title=四代 中埜又左衛門|publisher=ミツカン|accessdate=2012-12-13}}</ref>、そして7代目で名の表記を'''又左エ門'''とした<ref name="mizkan07">{{Cite web|和書|url=http://www.mizkan.co.jp/story/matazaemon/07.html|title=七代 中埜又左エ門|publisher=ミツカン|accessdate=2012-12-13}}</ref>。7代目は半田市名誉市民<ref>[http://www.city.handa.lg.jp/hisho/shise/gaiyo/shokai/meyoshimin.html 半田市]</ref>。

2003(平成15年)6月、[[中埜和英]]が8代目当主を襲名し'''中埜又左エ門和英'''<ref name="mizkan08">{{Cite web|和書|url=http://www.mizkan.co.jp/company/newsrelease/2003news/030625-00.html|title=(株)ミツカングループ本社の社長 中埜和英 八代 を襲名|publisher=ミツカン|accessdate=2014-6-1}}</ref>となった。ただし2014年(平成26年)5月に再び元の名前である中埜和英に改名したため<ref name="mizkan08kaimei">{{Cite web|和書|url=http://www.mizkan.co.jp/company/newsrelease/2014news/140519-01.html|title=ミツカングループ人事異動のご案内|publisher=ミツカン|accessdate=2014-6-1}}</ref>、今のところ中埜家で又左衛門(又左エ門)を名乗るものはいない。2022年(令和4年)8月21日、中埜和英は死去した<ref name="chunichi20220826">{{Cite web|和書|url=https://www.tokyo-np.co.jp/article/198137 | title=中埜和英さん死去 ミツカンHD会長 | publisher=中日新聞 |date=2022-8-26 | accessdate=2022-8-26 }}</ref>


2014現在の当主は8代目たり、2003年6月に襲名した際に'''中埜又左エ門和英'''<ref name="mizkan08">{{cite web|url=http://www.mizkan.co.jp/company/newsrelease/2003news/030625-00.html|title=(株)ミツカングループ本社の社長 中埜和英 八代 を襲名|publisher=ミツカン|accessdate=2014-6-1}}</ref>となったが、2014年5月に再び元の名前である中埜和英に改名したため<ref name="mizkan08kaimei">{{cite web|url=http://www.mizkan.co.jp/company/newsrelease/2014news/140519-01.html|title=ミツカングループ人事異動のご案内|publisher=ミツカン|accessdate=2014-6-1}}</ref>、今のところ中埜家で又左衛門(又左エ門)を名乗るものはいない。
== 初代 ==
== 初代 ==
初代'''中野 又左衛門'''([[宝暦]]6年[[1756年]]) - [[文政]]11年([[1828年]]))は、小栗喜左衛門家の長男として誕生する。[[半田町 (愛知県)|半田]]の酒造家・中野半左衛門家に養子として入り、文化元年(1804年)に分家して中野又左衛門家を興した。
初代'''中野 又左衛門'''([[1756年]]〈[[宝暦]]6年〉 - [[1828年]][[文政]]11年〉)は、小栗喜左衛門家の長男として誕生する。[[半田町 (愛知県)|半田]]の酒造家・[[中埜半左衛門|中野半左衛門]]家に養子として入り、[[1804年]]([[文化 (元号)|文化]][[元年]])に分家して中野又左衛門家を興した。


江戸で[[すし]]の流行を見た又左衛門は、酢の需要を見込み、半田で酒造業のかたわら、酒粕を原料とした「粕酢」の製造をはじめた<ref name="mizkan01" />。これが[[ミツカン]]グループの創業とされている。文化13年(1816年)に2代目に酢の醸造業を譲り、自らは酒造に専念した<ref name="mizkan01" />。
[[江戸]]で[[寿司]]の[[流行]]を見た又左衛門は、[[]]の需要を見込み、半田で酒造業のかたわら、酒粕を原料とした「粕酢」の製造をはじめた<ref name="mizkan01" />。これが[[ミツカン]]グループの創業とされている。[[1816年]](文化13年)に2代目に酢の醸造業を譲り、自らは酒造に専念した<ref name="mizkan01" />。


== 4代 ==
== 4代 ==
4代'''中埜 又左衛門'''([[安政]]元年[[1854年]]) - [[明治]]28年[[1895年]]))は、明治期の当主。小鈴谷(現在の[[常滑市]])の醸造家である[[盛田]]家の分家から中野又左衛門家の養子に入り、慶応3年(1867年)に家督を継承。現在(2012年)も使われているミツカンの商標を定めた。また、甥の[[盛田#盛田善平|盛田善平]]とともに丸三麦酒醸造所を設立し「[[カブトビール]]」ブランドのビール製造業を始めるなど、異業種にも参入した<ref name="mizkan04" />。
4代'''中埜 又左衛門'''。中埜小吉[[1854年]]〈[[安政]]元年〉 - [[1895年]][[明治]]28年〉)。[[明治]]期の当主<ref name=家系>[https://www.nijl.ac.jp/info/mokuroku/58-3.pdf 中埜半左衛門家文書目録 解題(出典 中埜酢店刊『七人の又左衛門』)2頁(42頁)] 2021年8月閲覧</ref>。小鈴谷(現在の[[常滑市]])の醸造家である[[盛田]]家の分家から中野又左衛門家の養子に入り、1867年(慶応3年)に家督を継承。現在(2012年)も使われているミツカンの商標を定めた。また、甥の[[盛田善平]]とともに丸三麦酒醸造所を設立し「[[カブトビール]]」ブランドのビール製造業を始めるなど、異業種にも参入した<ref name="mizkan04" />。中埜半六家より又左衛門家に養女に入った妻・なみは、[[1857年]]([[安政]]4年)生まれ、[[1930年]]([[昭和5年]])に没する<ref name=家系/>。

== 5代 ==
5代'''中埜 又左衛門'''。中埜政助([[1864年]]〈[[元治]]元年〉 - [[1919年]]〈[[大正]]8年〉)。2代中埜又左衛門の子である傅之助([[1826年]]〈[[文政]]9年) - [[1871年]]〈[[明治]]4年)、[[中埜半六]]家に養子に入り、8代半六となる)の子<ref name=家系/>。妻・とう([[1868年]]([[明治]]元年) - [[1936年]]([[昭和]]11年))は、4代盛田太助の孫<ref name=家系/>。準三([[1885年]]([[明治]]18年) - [[1887年]]([[明治]]20年))、幸三(6代中埜又左衛門)、きと([[1891年]](明治24年) - [[1921年]](大正10年))、三造([[1895年]](明治28年) - [[1969年]]([[昭和]]44年))は、二人の間の子供である<ref name=家系図>[https://www.nijl.ac.jp/info/mokuroku/58-3.pdf 中埜半左衛門家文書目録 解題(出典 中埜酢店刊『七人の又左衛門』)3頁(43頁)] 2021年8月閲覧</ref>。

== 6代 ==
6代'''中埜 又左衛門'''。中埜幸造([[1888年]]〈[[明治]]21年〉 - [[1960年]]([[昭和]]35年〉)。中埜政助の次男。最初の妻は、中埜純平・五女・つね([[1895年]](明治28年) - [[1916年]]([[大正]]5年))。後妻は、[[海部郡 (愛知県)|海部郡]][[富田村 (愛知県海部郡)|富田村]]の岩味等太郎・長女・多美([[1902年]](明治35年) - [[1962年]](昭和37年))。政一(7代中埜又左エ門)、依子([[1924年]](大正13年)生、西脇教二郎へ嫁す)、福子([[1927年]](昭和2年) - [[1929年]](昭和4年))、茅子([[1929年]](昭和4年)生、[[矢橋龍太郎]]へ嫁す)は、多美との間の子供<ref name=家系図/>。

== 7代 ==
7代'''中埜 又左エ門'''。中埜政一([[1922年]]〈大正11年〉 - 2002年〈平成14年〉)。中埜幸造の長男。[[慶応大学]]経済学部卒業。妻は、[[竹本長三郎]]・五女・ふじ([[1927年]]([[昭和]]2年)生)<ref name=家系図/>。長男・和英は8代目を継ぎ、二男・宏奏は[[ペパーダイン大学]]商学部卒業後、ミツカンUSA代表、三男・昌美は[[高千穂商科大学]]卒業後、中埜酒造代表<ref name=jinji40/>。
{{Main|中埜政一}}


== 8代 ==
== 8代 ==
8代'''中埜 又左エ門和英'''。中埜和英([[1950年]]〈[[昭和]]25年〉[[9月18日]] - 2022年〈令和4年〉8月21日)。中埜政一の長男<ref name=jinji40>『人事興信録』40版下「中埜和英」の項</ref>。
8代'''中埜 又左エ門和英'''([[昭和]]25年([[1950年]])9月18日 - )は、現当主。[[慶應義塾大学]]商学部卒。昭和48年([[1973年]])4月に(株)中埜酢店入社、[[平成]]14年([[2002年]])、7代目中埜又左エ門社長の死去に伴ない、同年5月24日に代表取締役社長に就任。翌平成15年([[2003年]])6月24日に8代又左エ門を襲名したが<ref name="mizkan08" />、元の名である和英(かずひで)を残して又左エ門和英となる。平成26年([[2014年]])5月に再び中埜和英に改名した<ref name="mizkan08kaimei" />。
{{Main|中埜和英}}


== 脚注 ==
== 脚注 ==
{{Reflist}}
{{Reflist|2}}

== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
*[http://www.mizkan.co.jp/story/ ミツカンのはなし] - [[ミツカン]]
*[http://www.mizkan.co.jp/story/ ミツカンのはなし] - [[ミツカン]]
*[https://minkei.jakou.com/mod/na/nakano-mizkan.html 中埜家(中埜又左衛門家)ミツカン(中埜酢店)創業家。中埜半左衛門家分家、酢屋勘次郎。愛知県。]


{{Japanese-history-stub}}
{{Japanese-history-stub}}
{{People-substub}}
{{People-substub}}

{{デフォルトソート:なかの またさえもん}}
{{デフォルトソート:なかの またさえもん}}
[[Category:ミツカングループ|*人]]
[[Category:ミツカングループ|*人]]
31行目: 46行目:
[[Category:明治時代の人物]]
[[Category:明治時代の人物]]
[[Category:日本の実業家]]
[[Category:日本の実業家]]
[[Category:旭日中綬章受章者]]
[[Category:愛知県出身の人物]]
[[Category:愛知県出身の人物]]
[[Category:商人の名跡]]
[[Category:商人の名跡]]

2023年12月1日 (金) 14:18時点における最新版

中野(中埜) 又左衛門(なかの またざえもん)は、尾張国半田(現在の愛知県半田市)の醸造家で、ミツカングループの創業家・経営者である中野又左衛門家の当主が受け継ぐ名[1]

1804年(文化元年)に同家を興した初代中野又左衛門によって酢の醸造がはじめられた[2]。明治期の4代目より苗字の表記が中埜[3]、そして7代目で名の表記を又左エ門とした[4]。7代目は半田市名誉市民[5]

2003年(平成15年)6月、中埜和英が8代目当主を襲名し、中埜又左エ門和英[6]となった。ただし2014年(平成26年)5月に再び元の名前である中埜和英に改名したため[7]、今のところ中埜家で又左衛門(又左エ門)を名乗るものはいない。2022年(令和4年)8月21日、中埜和英は死去した[8]

初代

[編集]

初代中野 又左衛門1756年宝暦6年〉 - 1828年文政11年〉)は、小栗喜左衛門家の長男として誕生する。半田の酒造家・中野半左衛門家に養子として入り、1804年文化元年)に分家して中野又左衛門家を興した。

江戸寿司流行を見た又左衛門は、の需要を見込み、半田で酒造業のかたわら、酒粕を原料とした「粕酢」の製造をはじめた[2]。これがミツカングループの創業とされている。1816年(文化13年)に2代目に酢の醸造業を譲り、自らは酒造に専念した[2]

4代

[編集]

4代中埜 又左衛門。中埜小吉(1854年安政元年〉 - 1895年明治28年〉)。明治期の当主[9]。小鈴谷(現在の常滑市)の醸造家である盛田家の分家から中野又左衛門家の養子に入り、1867年(慶応3年)に家督を継承。現在(2012年)も使われているミツカンの商標を定めた。また、甥の盛田善平とともに丸三麦酒醸造所を設立し「カブトビール」ブランドのビール製造業を始めるなど、異業種にも参入した[3]。中埜半六家より又左衛門家に養女に入った妻・なみは、1857年(安政4年)生まれ、1930年(昭和5年)に没する[9]

5代

[編集]

5代中埜 又左衛門。中埜政助(1864年元治元年〉 - 1919年大正8年〉)。2代中埜又左衛門の子である傅之助(1826年文政9年) - 1871年明治4年)、中埜半六家に養子に入り、8代半六となる)の子[9]。妻・とう(1868年(明治元年) - 1936年(昭和11年))は、4代盛田太助の孫[9]。準三(1885年(明治18年) - 1887年(明治20年))、幸三(6代中埜又左衛門)、きと(1891年(明治24年) - 1921年(大正10年))、三造(1895年(明治28年) - 1969年(昭和44年))は、二人の間の子供である[10]

6代

[編集]

6代中埜 又左衛門。中埜幸造(1888年明治21年〉 - 1960年(昭和35年〉)。中埜政助の次男。最初の妻は、中埜純平・五女・つね(1895年(明治28年) - 1916年(大正5年))。後妻は、海部郡富田村の岩味等太郎・長女・多美(1902年(明治35年) - 1962年(昭和37年))。政一(7代中埜又左エ門)、依子(1924年(大正13年)生、西脇教二郎へ嫁す)、福子(1927年(昭和2年) - 1929年(昭和4年))、茅子(1929年(昭和4年)生、矢橋龍太郎へ嫁す)は、多美との間の子供[10]

7代

[編集]

7代中埜 又左エ門。中埜政一(1922年〈大正11年〉 - 2002年〈平成14年〉)。中埜幸造の長男。慶応大学経済学部卒業。妻は、竹本長三郎・五女・ふじ(1927年(昭和2年)生)[10]。長男・和英は8代目を継ぎ、二男・宏奏はペパーダイン大学商学部卒業後、ミツカンUSA代表、三男・昌美は高千穂商科大学卒業後、中埜酒造代表[11]

8代

[編集]

8代中埜 又左エ門和英。中埜和英(1950年昭和25年〉9月18日 - 2022年〈令和4年〉8月21日)。中埜政一の長男[11]

脚注

[編集]
  1. ^ 七人の又左衛門”. ミツカン. 2012年12月13日閲覧。
  2. ^ a b c 初代 中野又左衛門”. ミツカン. 2012年12月13日閲覧。
  3. ^ a b 四代 中埜又左衛門”. ミツカン. 2012年12月13日閲覧。
  4. ^ 七代 中埜又左エ門”. ミツカン. 2012年12月13日閲覧。
  5. ^ 半田市
  6. ^ (株)ミツカングループ本社の社長 中埜和英 八代 を襲名”. ミツカン. 2014年6月1日閲覧。
  7. ^ ミツカングループ人事異動のご案内”. ミツカン. 2014年6月1日閲覧。
  8. ^ 中埜和英さん死去 ミツカンHD会長”. 中日新聞 (2022年8月26日). 2022年8月26日閲覧。
  9. ^ a b c d 中埜半左衛門家文書目録 解題(出典 中埜酢店刊『七人の又左衛門』)2頁(42頁) 2021年8月閲覧
  10. ^ a b c 中埜半左衛門家文書目録 解題(出典 中埜酢店刊『七人の又左衛門』)3頁(43頁) 2021年8月閲覧
  11. ^ a b 『人事興信録』40版下「中埜和英」の項

外部リンク

[編集]