鷲塚村
日本の愛知県碧海郡にあった村
鷲塚村(わしづかむら)は、かつて愛知県碧海郡にあった村である。
わしづかむら 鷲塚村 | |
---|---|
廃止日 | 1906年5月1日 |
廃止理由 |
合併 |
現在の自治体 | 碧南市 |
廃止時点のデータ | |
国 | 日本 |
地方 | 中部地方、東海地方 |
都道府県 | 愛知県 |
郡 | 碧海郡 |
市町村コード | なし(導入前に廃止) |
鷲塚村役場 | |
所在地 | 愛知県碧海郡鷲塚村 |
ウィキプロジェクト |
現在の碧南市の一部(旭町、神有町、鷲林町、荒子町、笹山町、二本木町、鷲塚町、天神町、城山町、鴻島町、霞浦町、新道町、日進町、尾城町、堀方町、北浦町、縄手町、踏分町、緑町、中後町、野銭町)に該当する。町名変更前に「碧南市大字鷲塚」と呼ばれた地域に一致する(詳しくは碧南市の地名#旧旭村を参照)。
歴史
編集古代は幡豆郡志貴庄に属したが、中世に矢作川の改修で碧海郡に編入された。戦国期まで矢作川は現在の流路を取らず、鷲塚村は東の入り江に突き出す半島(島という説もある)の港町であり、油ヶ淵は北浦と呼ばれる大きな入り江であった[1]。鷲塚湊はどの風向きでも碇泊できる安全性があり、隣の大浜湊の外港的存在として栄えた。 鷲塚に人が住み始めたのは鎌倉末期、その草分けは神谷・河原・大岡・片山・与吾・青木・鷲塚で「鷲塚の七軒」といわれる[2]。
- 1464年(寛正5年) - 蓮如が尾張からの参詣人のために鷲塚村に真宗寺を創建する。翌々年土呂(岡崎)に移す。
- 1468年(応仁2年) - 蓮如が西三河を巡錫し、鷲塚に願随寺、蓮成寺、西端に応仁寺を創建する。
- 1544年12月27日(天文13年閏11月13日) - 連歌師の谷宗牧が『東国紀行』に「十三日(天文一三年閏一一月)、岡崎までと急き侍れば、住持も馬にて鷲塚までわたり給へり。(中略)わしづかの寺内一巡して別れたり。向ひは吉良大家の御里なるべし。ここの眺めえもいはれぬ入江の磯なり」と記す。
- 1563年(永禄6年) - 三河一向一揆が起こり、鷲塚も戦場となる。
- 1564年(永禄7年) - 刈谷城主水野忠政の子水野忠重が鷲塚城主に任ぜられる。
- 1605年(慶長10年) - 米津から鷲塚までの開削により、矢作川が現在の流路を取る。大量の土砂が入り江に流入することで、鷲塚村は海寄りの村から矢作川沿いの村に変わり、矢作川の水運とともに鷲塚湊として栄える。
- 1644年(正保元年) - 米津から鷲塚まで堤防が築かれ、油ヶ淵が形成される。
江戸時代、鷲塚湊は碧海郡大浜(現碧南市)、幡豆郡平坂(現西尾市)、宝飯郡犬飼(宝飯郡竹ノ谷村、現蒲郡市)、御馬(宝飯郡御馬村、現豊川市御津町)とともに「三河五箇所湊」として知られた。1798年(寛政10年)の御城米船番組に所属した廻船は、最大の大浜湊で10艘、鷲塚は1艘、平坂は6艘であった(支配船一件帳)。古代国府の港として栄えた御津の御馬湊とともに、鷲塚湊は幕府領の米を運ぶ港に指定されていた[3]。
藩政期の鷲塚村は、初め西尾藩領、1659年(万治2年)幕府領、1726年(享保11年)岡崎藩領、1763年(宝暦13年)幕府領、1782年(天明2年)沼津藩領、この沼津藩領は1868年(慶応4年)上総に国替となり、菊間藩として明治に至る。
教育
編集- 鷲塚尋常高等小学校 (現・碧南市立鷲塚小学校)
出身人物
編集- 近藤坦平(医師) - 西洋医学教育の先駆けとなる医師。
脚注
編集参考文献
編集関連項目
編集- 愛知県の廃止市町村一覧
- 大浜騒動(鷲塚騒動)