遠田澄庵
1819-1889, 幕末の漢方医
遠田 澄庵(とおだ ちょうあん、文政2年(1819年) - 明治22年(1889年)7月29日)は、幕末の漢方医。幕府奥医師。名は景山。号は木堂。脚気治療の名手として知られる。
生涯
編集文政2年(1819年)、下総国佐倉藩士、水飼五八郎の四男として生まれる。幕府奥医師辻元崧庵(為春院)に師事したという。医術をもって美作国津山藩に仕えたが、安政5年(1858年)7月3日、将軍徳川家定の脚気による重態に際し、漢方医、青木春岱、蘭方医、伊東玄朴・戸塚静海とともに幕府奥医師に登用される。澄庵によれば、将軍の容体は既に手遅れであった。同年11月23日、法眼に叙せらる。将軍徳川家茂の上洛中は江戸にあったが、家茂が大坂城で病んだとの報を受け、慶応2年(1866年)7月16日、大膳亮弘玄院、多紀安琢(養春院)、高島祐庵、浅田宗伯らとともに大坂へ急派された。明治11年(1878年)、脚気病院が設置され漢洋両サイドの医師が治術を競った際、今村亮とともに漢方側の委員を務めた(いわゆる漢洋脚気相撲)。明治22年(1889年)没。池袋本立寺に葬る。
余技に漢詩をよくした。樋口一葉の父・則義と親しく、一葉の為に中島歌子を紹介したことが知られている。長男・注が牛込逢坂の遠田医院を継ぎ、次男・清は静岡病院長などを勤めた。幕府歩兵屯所付医師で蘭学者の遠田昌庵は実弟である。
脚気の原因として、「米食(白米過多かつその他の栄養素不足)」を挙げている。この時代としては革新的である。脚気の治療時は、漢方薬の服薬と同時に、厳しい食事制限(栄養素管理)を求めており、これもまた先進的であった。