近藤勇陣屋跡
概要
編集鳥羽・伏見の戦いで官軍に敗れた江戸幕府軍は江戸に戻ったが、新選組局長の近藤勇は流山に移って陣を敷いた。その理由として、会津藩へ向かう途中、散らばった同志を結集して新たな部隊を編成するために官軍が手薄であった道を選んだなどの説もあるが、はっきりした理由はわかっていない[1][2]。また、当時の流山は水運業と醸造業が盛んであったからともいわれる[2]。
1868年(慶応4年)4月2日ごろ、近藤率いる部隊200人が流山村に入り[2]、光明寺などに分宿したとされる。近藤勇など幹部たちは酒造業を営む「永岡三郎兵衛」方に陣屋を構えた。翌4月3日に流山は新政府軍により包囲されたが、最後は近藤勇が単身投降したために戦闘は起こらなかった。陣屋となった永岡屋敷は騒動後に経営不調に陥り、屋敷は秋元家に引き継がれた。2011年(平成23年)、敷地内にて幕末当時の札が発見され、近藤勇の陣屋であった「永岡家」宅跡であることが確認された。
なお、現在敷地内に建つ土蔵は近藤勇陣屋と同時期に建築されたものだが、両者に直接の関係はない。
歴史
編集永岡屋敷について
編集永岡屋敷の建築時期やその構造、解体時期については不明である。近藤勇たちが訪れた時には蔵があったが、それが永岡屋敷に当たるかは不明である。2011年(平成23年)に秋元家当主の秋元浩司が敷地内の稲荷祠から発見した、幕末当時の札が入れられていた箱の「箱書き」から、永岡屋敷であることが判明した。
略歴
編集現在の陣屋跡
編集本陣として使われた建物は現在は取り壊され、駐車場となっている。本陣の土台石が現在の土蔵前と休憩スポットに移設され、当時の階段が流山博物館に展示されている。現在跡地にある土蔵は「秋元家住宅土蔵」である。2018年5月に国登録有形文化財に登録され、また、同年10月に所有者の秋元浩司によって流山市に寄贈された[3]。本陣とされた建物は現存しないものの、新選組ファンなどが訪れるなど、流山市の一つの観光地として親しまれている。毎年、4月の第2日曜日になると「流山新撰組まつり・勇忌」が行われている[4]。
アクセス
編集出典
編集- ^ “近藤勇陣屋跡”. 流山市. 2019年12月16日閲覧。
- ^ a b c INC, SANKEI DIGITAL (2017年3月25日). “【大人の遠足】新撰組ファンが訪れる近藤勇陣屋跡 千葉・流山市 盟友土方歳三との最後の別れの場”. 産経ニュース. 2019年12月16日閲覧。
- ^ 青柳孝司『新撰組陣屋跡』流山本町・利根運河ツーリズム推進課。
- ^ “流山市観光協会ー近藤勇陣屋跡”. 流山市観光協会. 2019年12月16日閲覧。
- ^ “流山市観光協会 - 近藤勇陣屋跡”. 2019年11月25日閲覧。
- ^ “近藤勇陣屋跡/千葉県公式観光情報サイトーまるごとe! ちばー”. 公益社団法人 千葉県観光物産協会. 2019年12月13日閲覧。
座標: 北緯35度51分20.2秒 東経139度53分58.9秒 / 北緯35.855611度 東経139.899694度