賈士毅
賈 士毅(か しき)は、中華民国の財務官僚・経済学者・政治家。字は果伯。号は荊齋。江蘇省常州府宜興県の人。
賈士毅 | |
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Who's Who in China 4th ed. (1931) | |
プロフィール | |
出生: |
1887年1月27日 (清光緒13年正月初4日) |
死去: |
1965年(民国54年)7月9日 台湾台北市 |
出身地: | 清江蘇省常州府宜興県 |
職業: | 軍人 |
各種表記 | |
繁体字: | 賈士毅 |
簡体字: | 贾士毅 |
拼音: | Jiǎ Shìyì |
ラテン字: | Chia Shih-i |
和名表記: | か しき |
発音転記: | ジャー シーイー |
事績
編集北京政府時代の活動
編集1906年(光緒32年)、無錫初級師範学校に入学し、翌年、上海法政講習所に進学した。1908年(光緒33年)、日本に留学し、最初に法政大学政治科に入学し、後に明治大学政治科に転入した。1911年(宣統3年・明治44年)に卒業[1]、帰国して法科挙人となり、公立蘇州法政専科学校の教員となっている。[2][3][4]
1912年(民国元年)、北京政府財政部財政討論会会員となり、後に江蘇省財政視察員に任ぜられた。翌年には、財政部国税庁籌備員、幣制委員会会員、編纂処主任に任ぜられた。同年9月、財政部庫蔵司司長も兼任し、11月に同部会計司司長に異動する。1914年(民国3年)2月、署理財政部参事となり、5月、財政部賦税司司長代理も兼ねた。1915年(民国4年)、全国官産処会弁を兼ねる一方で、私立民国大学や公立法政専科学校、財政講習所で講座を開いた。1920年(民国9年)10月、鎮江関監督となる。翌年、ワシントン会議に代表団専門員として随行した。[3][4][5]
国民政府時代の活動
編集その後、南方に移って国民政府側に転じる。1927年(民国16年)、上海銀行公会書記長に任ぜられ、4月には江蘇省政府委員に任ぜられた。8月、国民政府財政部賦税司司長兼塩務処長代理に任ぜられ、さらに国定税則委員会委員も兼ねている。また、国立中央大学、国立中央政治大学の経済系(経済学部)教授もつとめた。翌1928年(民国17年)、交通銀行監察人も兼ね、8月には第2期立法院立法委員に任ぜられている(第3期も連続就任)。1933年(民国22年)2月、湖北省政府委員兼財政庁庁長に任ぜられ、1938年(民国27年)6月までつとめた。[3][6][7]
1940年(民国29年)7月、財政部専門委員に任ぜられ、香港で職務に就き、『財政評論』社社長代理もつとめた。1943年(民国32年)1月、江蘇省政府委員兼財政庁庁長に任ぜられ、後に江蘇農民銀行董事長(理事長)も兼任した。1951年(民国40年)、台湾に移住し、台湾第一商業銀行董事、交通銀行監察人、逢甲学院董事などをつとめている。1965年(民国54年)7月9日、台北市にて病没。享年79(満78歳)。[3][6]
著作
編集- 『民國財政經濟問題今昔觀』
- 『國稅與國權』
- 『民國財政史』
- 『國債與銀行』
- 『華會見聞錄』
他多数
注
編集参考文献
編集- 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1。
- 劉国銘主編『中国国民党百年人物全書』団結出版社、2005年。ISBN 7-80214-039-0。
- 東亜問題調査会編『最新支那要人伝』朝日新聞社、1941年。
- Who's Who in China 4th ed. The China Weekly Review (Shanghai) , 1931.
- 明治大学編『明治大学一覧 付・卒業生年度別 昭和十二年』明治大学、1937年。