譚 玉齢(たん ぎょくれい、1920年8月11日 - 1942年8月14日)は、清朝最後の皇帝愛新覚羅溥儀の側室。満洲名は「他他拉」玉齢。位は貴人他他拉貴人(タタラきじん)と呼ばれることが多い。

譚玉齢
Tan Yuling
1937年
在位 1937年 - 1942年

称号 明賢皇貴妃
出生 (1920-08-11) 1920年8月11日
中華民国の旗 中華民国 京兆地方京都市
死去 (1942-08-14) 1942年8月14日(22歳没)
満洲国の旗 満洲国 新京特別市
埋葬 中華人民共和国の旗 中華人民共和国 河北省易県華龍皇園
配偶者 愛新覚羅溥儀
家名 他他拉氏
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譚玉齢

略歴

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1920年北京満洲旗人の家に生まれる。当時、満洲族漢族の習俗になじみ、漢名を名乗ることもあった。玉齢が生まれたときには、実家の他他拉氏は「譚」という漢姓を使用していた。

1937年、北京の女子学生の身であったが、満洲国皇帝となった溥儀に選ばれて新京(長春)に迎えられ、「貴人」に冊立される。しかし1942年に早世。「明賢貴妃」とされた。遺骸は長春の般若寺に埋葬されたが、後に荼毘に付され、遺骨は北京に遷された。

病弱の身であったとはいえ彼女の急死については疑惑がある。御用掛の吉岡安直溥儀に日本人女性を嫁がせたいと考えており、譚玉齢は邪魔になったため毒殺されたという説がある[1]が、真偽は不明。中国の歴史ドラマ「ラストエンペラー」はこの説を採用している[2]。溥儀は自伝『わが半生』において彼女の死因は腸チフスであったと書きつつも、治療を担当した吉岡の責任だとする内容を綴っている。

1995年河北省易県にある、清朝の歴代皇帝の陵墓清西陵の近くの民間墓地「華龍皇園」の経営者が墓地の知名度を上げるために、溥儀の最後の夫人李淑賢に溥儀の墓を作ることを提案し、これに同意した李淑賢によって溥儀の遺骨は同墓地に移された。また、後に溥儀の墓のそばに、皇后婉容と譚玉齢の墓も造られた。2004年、愛新覚羅家により改めて明賢皇貴妃の諡号が贈られた。

脚注

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  1. ^ Emperor Xuantong”. web.archive.org (2007年11月16日). 2020年2月13日閲覧。
  2. ^ BSテレ東 中国歴史ドラマ ラストエンペラー”. www.bs-tvtokyo.co.jp. 2020年2月13日閲覧。

登場作品

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関連項目

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