西野 陽(にしの あきら、1940年1月15日 - )は、日本政治家

西野 陽
にしの あきら
首相官邸より公表された肖像
生年月日 (1940-01-15) 1940年1月15日(84歳)
出生地 日本の旗 日本 大阪府
出身校 関西大学法学部
所属政党自由民主党→)
新進党→)
自由党→)
保守党→)
(自由民主党(古賀派)→)
無所属
称号 法学士
子女 長男・西野弘一(大阪府議会議員・元衆議院議員)
次男・西野修平河内長野市長・元大阪府議会議員)
親族 父・西野米太郎(元大阪府議会議長)
弟・西野茂(大阪府議会議員)
義娘(修平の妻)・小林由佳(元堺市議会議員)

選挙区大阪13区→)
比例近畿ブロック→)
大阪13区
当選回数 5回
在任期間 1996年10月20日 - 2012年11月16日

大阪府の旗 第83代 大阪府議会議長
在任期間 1987年6月 - 1988年6月

大阪府の旗 大阪府議会議員
選挙区 東大阪市選挙区
当選回数 5回
在任期間 1975年 - 1993年
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衆議院議員(5期)、経済産業副大臣第3次小泉改造内閣)、大阪府議会議員(5期)等を歴任。

来歴

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大阪府出身。大阪府立布施高等学校関西大学法学部卒業。

1975年4月14日の議員選挙に自由民主党公認で東大阪市選挙区から出馬し、初当選。5期連続で当選し、大阪府議会議長も務めた。

1993年、5期目の任期途中で府議を辞職し、7月18日第40回衆議院議員総選挙に自民党公認で出馬したが、落選した。のちに自民党を離党し、新進党に入党。

1996年10月20日第41回衆議院議員総選挙では、大阪13区で11期目の当選をめざす自由民主党総務会長塩川正十郎を破り、当選した(塩川は重複立候補を辞退していたため落選)。

1998年、新進党解党に伴い、自由党結党に参加。

2000年の自由党分裂の際は自自公連立政権への残留を主張し、保守党結成に参加。熊谷弘らの合流に伴う保守新党結党には参加せず、自民党に復党した。

2000年第42回衆議院議員総選挙では、大阪13区から塩川が出馬し、西野は比例近畿ブロック単独で再選。

2001年第1次小泉内閣環境大臣政務官に任命された。

2003年第43回衆議院議員総選挙では、塩川が政界引退を表明したため、西野が大阪13区から出馬し、3選。

2005年第44回衆議院議員総選挙では、大阪13区で民主党富家孝を8万票を上回る大差で破り、4選。同年、第3次小泉改造内閣経済産業副大臣に就任。

2009年8月30日第45回衆議院議員総選挙では、大阪13区で国民新党白石純子の猛追を受けるが、1万7,000票差で白石を破り、5選。大阪の19の小選挙区のうち、自民党所属の当選者は西野のみであった。

2012年12月、第46回衆議院議員総選挙の公示日直前に公認を辞退し[1]、政界を引退する意向を表明[2]。この選挙では、長男の西野弘一日本維新の会公認で大阪13区から立候補した。自民党側は「引退は寝耳に水。こちらの候補者擁立と、準備を遅らせる卑劣なやり方だ」と陽の行動を批判し、急遽元吹田市議会議員の神谷宗幣を擁立したが、弘一に大差で敗れた[3][4]。この結果を受け、西野は「党の規律を乱す行為」として自民党を除名された[5][6]

親族

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いずれも大阪維新の会チャーターメンバー。長男の弘一は第46回衆議院議員総選挙日本維新の会公認で大阪13区から出馬し、当選した[8]

出典

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議会
先代
木村隆秀
  衆議院環境委員長
2006年 - 2007年
次代
小島敏男
公職
先代
小此木八郎
保坂三蔵
  経済産業副大臣
西川玲子と共同

2005年 - 2006年
次代
山本幸三
渡辺博道
先代
熊谷市雄
  環境大臣政務官
2001年 -2002年
次代
奥谷通