若尾文子

日本の女優 (1933-)

若尾 文子(わかお あやこ、本名:黒川 文子、1933年昭和8年〉11月8日[1] - )は、日本女優。夫は建築家黒川紀章

わかお あやこ
若尾 文子
若尾 文子
『読切倶楽部』1960年1月号より
本名 黒川 文子
生年月日 (1933-11-08) 1933年11月8日(91歳)
出生地 日本の旗 日本東京府東京市豊島区(現:東京都豊島区)[1]
出身地 日本の旗 日本・東京府東京市荒川区(現:東京都荒川区)
職業 女優
活動期間 1951年 -
活動内容 映画テレビドラマ舞台
配偶者 西館宏幸(離別) 黒川紀章(死別)[1]
主な作品
テレビドラマ
新・平家物語[1]
あなただけ今晩は
みずきの花匂うとき
午後の旅立ち
秋なのにバラ色
映画
十代の性典
赤線地帯[1]
女は二度生まれる[1]
しとやかな獣
受賞
ブルーリボン賞
その他の賞
キネマ旬報ベスト・テン
主演女優賞
1962年女は二度生まれる』『妻は告白する
1966年清作の妻』『波影』『妻の日の愛のかたみに
1969年不信のとき』『濡れた二人』『積木の箱
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来歴・人物

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東京府東京市荒川区(現:東京都荒川区)に5人兄姉の末っ子に生れ育つ。第二次大戦中は父親の仕事の関係で宮城県仙台市に疎開していた。宮城県第二女子高等学校(現・宮城県仙台二華高等学校)中退。文子は1951年に大映の第5期ニューフェイスとして映画界入り。

1952年、急病で倒れた久我美子の代役として、小石栄一監督の『死の街を脱れて』で銀幕デビュー。翌1953年に映画『十代の性典』がヒット作となる[2]も、婦人団体から怒りを買うような思春期映画であり[3]、マスコミから性典女優と酷評されるも知名度は急上昇した。それ以降も出演作を重ね人気女優としての地位を築く。同年の映画『祇園囃子』(1953年)では溝口健二監督に起用され、女優としての実力を発揮し、性典女優の蔑称(汚名)を返上し、熱演が高く評価された。以降、可憐でありながら強烈な情念と内に秘めた激しい気性を表現する演技から、日本映画を代表する正統派美人女優の一人となり、京マチ子山本富士子と並ぶ大映の看板女優と謳われ、260本以上の映画に主演した。和服姿の艶やかな美貌から、未だに国内での人気が高い[1]

増村保造とは、監督第2作目の映画『青空娘』以降、『清作の妻』『妻は告白する』『赤い天使』『「女の小箱」より 夫が見た』『刺青』『卍』『妻二人』『千羽鶴』など、20作にわたってコンビを組み、多くの名作映画を残した。川島雄三により、本格派女優に鍛え上げられた。1960年代半ばに各映画賞を総なめにするなど、戦後日本映画を代表する女優となる。

1971年の大映倒産以降は映画を離れ、『新・平家物語』など、テレビドラマで活躍。また、『雪国』(川端康成原作)で舞台にも進出。1988年の『武田信玄』では信玄の母親役とナレーションをこなし、「今宵はここまでに致しとうござりまする」が流行語大賞を受賞するなどして再び注目される。

1963年にデザイナー西館宏幸と結婚したが1969年に離婚した[1]。1976年にテレビ番組『すばらしき仲間』で黒川紀章と対談。そのとき黒川は若尾に「君はバロックのような人だ」とその美貌をバロック美術に例えた。これがきっかけで交際するが黒川は既婚者で、娘が20歳になるまで黒川の妻が離婚に応じなかったため結婚まで7年がかかり、1983年に黒川と再婚した[1]。以降、テレビドラマの出演はやや抑え気味になり、2007年現在は舞台を中心に活躍している[1]

2000年に発表された『キネマ旬報』の「20世紀の映画スター・女優編」で日本女優の8位になった。2014年発表の『オールタイム・ベスト 日本映画男優・女優』では日本女優2位となっている[4]

2005年には行定勲監督たっての希望により、『春の雪』で久々の映画出演を果たした。

2007年第21回参議院議員通常選挙に、夫の黒川が党首である共生新党公認で比例区から出馬したが、落選した。

ギャラリー

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エピソード

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  • 仙台を舞台にした井上ひさしの自伝的作品『青葉繁れる』のヒロイン(若山ひろ子)のモデルとされているが、若尾本人は否定している[5]
  • 女学校時代のニックネームは石仏、これは読書ばかりして、ほとんど声を出してしゃべらなかったことから同級生につけられたという。
  • 疎開中、仙台で観た長谷川一夫の舞台に感激し、舞台終演後、楽屋へ訪問し「私も女優になりたい」と長谷川に直訴。それが縁で帰京後、大映ニューフェイスへ応募し合格した、という逸話が有名であるが、実際のところは仙台に疎開中、学校の帰りに友人と大通りを歩いていたら、仙台座という劇場の楽屋口に檻に入った小熊を見つけ、可愛いので駆け寄ると、劇場から三味線の音がして長谷川一夫と山田五十鈴が舞台から降りて楽屋口から裏に出てきた。長谷川一夫が親しげに声を掛けてくれたので、一種の子供なりのリップサービスだったのか「女優になりたいんです」と言ってしまった。すると「学校を卒業してからいらっしゃいね」と言われてその話はそこで終わった。仙台から東京に戻ったら、義兄が大映のニューフェイス募集を見て、彼女の写真を送ってしまったのだという[6][注 1]
  • 出世作である『十代の性典』は当時、教育関係者や新聞・雑誌からかなりの批判を受けたため、長年インタビューなどでもそのことはタブー扱いされていた。
  • 1959年(昭和34年)3月2日から6日まで開催された「ベルリン日本映画芸術の日」と3月6日から11日まで開催された「ミュンヘン日本映画見本市」に出席のため、同3月1日、池広利夫(大映営業渉外部長)、山梨稔新東宝専務)や芦川いづみ日活)、大川恵子東映)、大空眞弓(新東宝)、小山明子松竹)、司葉子東宝)ら他の映画会社各社代表女優たちと共に大映代表女優としてドイツへ出発。
  • 父親は山梨県南巨摩郡身延町出身。その縁で、最初の夫とは同町の久遠寺で挙式している。父親の若尾定雄は尾形金声の名で活動弁士をしていたが、戦後、大塚駅前で長靴屋をやっていた。
  • 芸能リポーター・前田忠明との単独インタビューで、前田がインタビュー中必要以上に年齢(インタビュー当時、若尾は50歳)を強調した質問(「50歳を迎え…」「50にしてなお…」など)を幾度もしたことに怒り、インタビュー途中で退席したことがある[7]
  • 夫の黒川紀章が亡くなる2日前に、若尾が「私、あんまりいい奥さんじゃなかったわね。」と問うと、「そんなこと、そんなこと、そんなこと(ない)! 本当に(君が)好きだったんだから」と黒川に言われたのがふたりだけの最後の会話になったという。このエピソードは黒川が死去した翌日、自宅マンションに詰め掛けた報道関係者に対してインターフォン越しに語った。

出演

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映画

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1952年
1953年
1954年
1955年
1956年
1957年
1958年
1959年
1960年
1961年
1962年
1963年
1964年
1965年
1966年
1967年
1968年
1969年
1970年
1971年
1975年
1987年
2005年

テレビドラマ

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舞台

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ニュース映画

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バラエティ

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ラジオ

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受賞歴

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関連書籍

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  • 『若尾文子“宿命の女”なればこそ』聞き手・著述:立花珠樹、ワイズ出版、2015年
  • 『女優 若尾文子』キネマ旬報社、2012年
  • 『若尾文子 写真集』同製作委員会編、ワイズ出版、2020年
以下は一部収録

脚注

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注釈

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  1. ^ 長谷川が賭け手としてゲスト出演した『クイズダービー』1982年1月2日放送分では、このエピソードが第1問目に出題された。

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j 別冊宝島2551『日本の女優 100人』p.46.
  2. ^ http://movies.yahoo.co.jp/movie/135918/
  3. ^ 世相風俗観察会『現代世相風俗史年表:1945-2008』河出書房新社、2009年3月、55頁。ISBN 9784309225043 
  4. ^ オールタイム・ベスト10 日本映画男優・女優”. KINENOTE. キネマ旬報社 (2014年12月). 2016年9月23日閲覧。
  5. ^ 「女優が語る私の人生」NHKサービスセンター、2012年、P85
  6. ^ 婦人公論N。1260 2008 11/7
  7. ^ 動画6:12~ - YouTube
  8. ^ 放送ライブラリー 番組ID:001052
  9. ^ 明治座 過去の公演一覧 1989-1993年”. 2018年5月24日閲覧。
  10. ^ 放送ライブラリー 番組ID:N00722
  11. ^ 放送ライブラリー 番組ID:N02087
  12. ^ a b c d 若尾文子のCM出演情報”. ORICON STYLE. 2016年11月27日閲覧。

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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