粟屋謙
日本の文部官僚
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粟屋 謙(あわや けん、1883年(明治16年)3月21日 - 1938年(昭和13年)4月2日)は、日本の文部官僚、滝川事件当時の文部次官。山口県下関市長府出身。長府藩報国隊を組織した野々村勘九郎の孫。
あわや けん 粟屋 謙 | |
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生誕 |
1883年3月21日 東京府(現・東京都) |
死没 | 1938年4月2日(55歳没) |
国籍 | 日本 |
出身校 | 東京帝国大学法科大学 |
職業 | 官吏 |
団体 | 大日本職業指導協会 |
肩書き | 従三位勲二等 |
配偶者 | 米子(藤岡市助次女) |
子供 | 潔(長男)、綾子(長女・永野俊夫妻)、正子(次女・高嶋英一妻)、治(次男)、保(三男)、和子(五女・森川和信妻)、信(四男)、義子(六女)、博 |
経歴
編集旧長府藩士・教員である粟屋平一の長男として東京で生まれる。豊浦中学、第三高等学校を経て、1907年7月で東京帝国大学法科大学法律学科(独法)卒業し大学院に進む。同年7月、内務省に入省し東京府属となる。同年11月、文官高等試験に合格。以後、内務属、茨城県事務官を歴任。
1911年5月、文部省に転じ文部書記官兼文部省参事官に就任。1913年、宗教局が内務省から文部省に移管されたのを機に、宗教法制定に尽力。名古屋高等商業学校校長事務取扱、文部省宗教局長、同実業学務局長、同専門学務局長等を経て、1927年~29年、1931年~34年文部次官。1932年国民精神文化研究所初代所長(代行)。1934年恩賜財団愛育会の設立に文部次官として参画。従三位勲二等。
親族
編集- 妻 粟屋米子(工学者・藤岡市助の娘)
参考文献
編集- 豊浦高等学校沿革史編纂委員会編『豊浦高等学校沿革史』豊浦高等学校、1964年。
- 秦郁彦編 『日本近現代人物履歴事典』 東京大学出版会、2002年5月、ISBN 4130301209。
関連文献
編集- 「粟屋謙君」(井関九郎撰 『現代防長人物史 人』 発展社、1917年12月)
- 井関九郎編 『近代防長人物誌 人』 マツノ書店、1987年2月
- 『職業指導』第11巻第5号、大日本職業指導協会、1938年5月
公職 | ||
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先代 中川健蔵 松浦鎮次郎 |
文部次官 教員検定委員会会長 維新史料編纂事務局長 学校衛生調査会会長 震災予防評議会会長 1931年 - 1934年 1927年 - 1929年 |
次代 三辺長治 中川健蔵 |
先代 (新設) |
国民精神文化研究所長事務取扱 1932年 - 1934年 |
次代 関屋龍吉 所長 |
先代 松浦鎮次郎 |
医師試験委員長 歯科医師試験委員長 薬剤師試験委員長 1927年 - 1929年 |
次代 潮恵之輔 |
その他の役職 | ||
先代 赤司鷹一郎 |
大日本職業指導協会理事長 1933年 - 1938年 |
次代 松浦鎮次郎 会長 |