竹田定簡
竹田 定簡(たけだ さだひろ、1815年(文化12年)- 1889年(明治22年)10月23日)は江戸時代、明治時代の儒学者、教育者。福岡藩の藩儒竹田家の第8代当主。藩校修猷館(東学問稽古所)第4代総受持(館長、「教授」とも称される)[1]。号は蕭韵。字(あざな)は子得。通称は助太夫[2]。
経歴
編集福岡藩の藩校である修猷館の、第3代総受持を務めた竹田定夫(梧亭)の子として生まれる[2]。
1840年(天保11年)、父の死後に家督をつぎ、修猷館総受持を命じられるが、修学のため休職して斎藤拙堂に学ぶ[2]。その後、総受持として学制を改革し、生徒を増員し、古い校舎を改築した[3]。