竹田定猗
江戸時代、明治時代の儒学者、教育者
竹田 定猗(たけだ さだより、1833年(天保4年)- 1889年(明治22年)11月22日)は江戸時代、明治時代の儒学者、教育者。福岡藩の藩儒竹田家の第9代当主。藩校修猷館(東学問稽古所)第5代総受持(館長、「教授」とも称される)[1]。号は謙窓。字(あざな)は子斐[2]。
経歴
編集福岡藩の藩校である修猷館の、第3代総受持を務めた竹田定夫(梧亭)の子として生まれる[2]。
1858年(安政5年)安積艮斎の門に入る。1861年(文久元年)帰藩し、1867年(慶応3年)修猷館総受持となる。
維新後、1871年(明治4年)藩校が廃止となると、各地の教職を歴任した。その後、1887年(明治20年)9月から1889年(明治22年)11月にかけて、再興された修猷館の教導となった[2][3]。