立花実山
立花 実山(たちばな じつざん、明暦元年(1655年) - 宝永5年11月10日(1708年12月21日))は、江戸時代前期の茶人、福岡藩の家老。通称は五郎佐衛門。実山は道号で、諱(実名)は重根(しげもと)。出家して宗有と号する。茶道の南坊流(立花流)を開いた。兄に立花重敬(黒田次郎太夫)、弟に立花増武、立花峯均、立花重躬、子に立花不白、甥に笠原道桂がいる。妻は野村祐春の次女。
生涯
編集明暦元年(1655年)、筑前福岡藩の重臣・立花重種(しげたね、黒田平左衛門、薦野増時の孫)の次男として誕生。
父・重種は1万5000石を領し黒田姓を許されたが、その家督は兄の重敬が相続した。実山は8歳より福岡藩3代藩主黒田光之に仕え、45年間の長きにわたった。貝原益軒や木下順庵に学び、書や和歌を能くし、特に和歌に関しては中院通茂に古今伝授を受けた。
延宝5年(1677年)2月、主君・光之は嫡男・綱之を廃嫡し、東蓮寺藩を継いでいた三男・長寛(綱政)を後継ぎと新たに定めたことに異議を唱えたが、聞き入れられなかった。元禄元年(1688年)、光之が隠居して綱政が新藩主となると、綱之の用人として配された経緯もあり、光之の隠居頭取となり3000石余の禄を受けた。
茶人でもあった実山は、元禄3年(1690年)に千利休およびその高弟・南坊宗啓の茶道の秘書といわれる『南方録』を書写し、さらにこれに補足を加え、秘伝9ヶ条にまとめて『南方録』7巻を著した。これは利休のわび茶を理論的に著述したもので、織部流を基本とし道安流と遠州流を加えた、南坊流(立花流)を開いた。また禅にも通じていたため、元禄9年(1696年)には東林寺を建立し、帰依していた曹洞宗の僧・卍山道白を開祖に同寺を開基した。宝永2年(1705年)、弟子の4人(子の不白、峯均、固本、自得庵)に『南方録』の書写を許可した。
宝永4年(1707年)、長年仕えた藩主・黒田光之が没したのちに東林寺で出家し、住吉村の松月庵に閑居した。
ところが宝永5年(1708年)6月3日、光之の跡目をめぐっての「綱之騒動」の巻き添えとなり、義父の野村祐春にお預けとなり、嘉麻郡鯰田村に幽閉。幽閉中に『瑞鳳山東林寺後々之記』『梵字艸(ぼんじそう)』3巻を著した。同年11月、黒田綱政の命により殺害された。没後40年、6代藩主黒田継高により東林寺(現・福岡県福岡市博多区博多駅前3丁目)に改葬された。
参考文献
編集- 戸田勝久『南方録の展開』
- 熊倉功夫『南方録を読む』
- (西日本新聞)『福岡県百科辞典』