稲野花 倉吉(いねのはな くらきち、1857年安政4年)5月8日(旧暦4月15日) - 1889年明治22年)9月15日)は、尾張国中島郡(現:愛知県一宮市)出身の元大相撲力士。本名は高木 倉吉(たかぎ くらきち)[1]で、8代・田子ノ浦の養子だった際は大坪 倉吉(おおつぼ くらきち)。

稲野花 倉吉(稲ノ花小右エ門)
基礎情報
四股名 稲野花 倉吉
本名 高木 倉吉
生年月日 1857年5月8日(旧暦4月15日
没年月日 (1889-09-15) 1889年9月15日(32歳没)
出身 尾張国中島郡
(現:愛知県一宮市
身長 不明
体重 不明
所属部屋 田子ノ浦部屋[1]粂川部屋
成績
現在の番付 引退
最高位 西前頭7枚目
幕内戦歴 9勝16敗1預14休(4場所)
優勝 優勝相当成績1回
データ
初土俵 1876年1月場所(二段目)
入幕 1883年1月場所
引退 1889年5月場所
備考
1885年1月場所終了後に一度引退
1887年1月場所後に再入門
2019年6月30日現在

来歴

編集

1857年安政4年)5月8日(旧暦4月15日)に尾張国中島郡(現:愛知県一宮市)で生まれる。1876年1月場所で二段目(現在の幕下)から初土俵を踏むと、1880年1月場所で新十両に昇進、1881年1月場所では西十両9枚目の地位で8勝1敗1分の優勝相当成績を挙げた。1883年1月場所で新入幕を果たすと、同年5月場所で6勝3敗1休の優勝次点の好成績を挙げるが、これが生涯唯一の勝ち越しとなってしまった。これ以降は不振に陥り、1885年1月場所後に一度現役を引退、タニマチの勧めもあって米の仲買を始めたが、長続きはしなかった。

1887年1月場所終了後、十両格番付外で再入門したが、再入幕どころかすぐに陥落となり[1]1889年5月場所終了後の同年9月15日に死去、32歳没。

出典

編集

関連項目

編集