石橋 忍月(いしばし にんげつ、慶応元年9月1日グレゴリオ暦1865年10月20日) - 1926年大正15年)2月1日)は日本の文芸評論家、小説家、弁護士政治家。本名は友吉は萩の門、気取半之丞、福洲学人など。三男は文芸評論家の山本健吉[1](本名・石橋貞吉)。

明治23年(1890年)、森鷗外の「舞姫」、「うたかたの記」等をめぐり鴎外と論争し評論の地位を高めた。しかし、壮年以降は文学からはなれ、長崎県の県会議員、弁護士として活動した。

年譜

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人物像

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帝大在学中からレッシングゲーテシラーなどに親しみ、文学への目を開き坪内逍遥の『妹と背鏡』、二葉亭四迷の『浮雲』などを論じた清新な筆触で認められた。

家族・親族

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実家(石橋家)
  • 父 茂(漢方医)
  • 母 フク(田本村庄屋中島宗吉三女)
  • 長兄 近蔵 - 中島家へ養子入籍
  • 次兄 松次郎
養家(石橋家)

系譜

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石橋家(石橋氏
八女市の医師石橋正良宅に伝わる『石橋氏系図』によると、八女地方の石橋一族は、清和源氏の子孫と称した肥前出身の武士で、豊後大友氏の門族である筑後国下田城主堤貞元の重臣石橋右衛門盛清(慶長6年没)が天正年間(1573年から1593年)に、筑後国生葉郡星野村に定住したのがはじまりである。医業は盛清の3代目にあたる作右衛門教清が寛永年間(1624年から1643年)に起こし、爾来、分家新立によって石橋医家の繁栄がもたらされた。


     
           ┏近蔵 
           ┃
       ┏茂━━╋松次郎
       ┃   ┃
佐仲━意仙━━╋養元 ┗友吉
       ┃    (忍月)
       ┗正蔵

著作

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  • 『石橋忍月評論集』岩波文庫、1939年11月、復刊1988年。49篇、石橋貞吉(山本健吉)解説
  • 『石橋忍月全集』八木書店(全4巻・補巻1)、1995-96年、オンデマンド版2014年
関連文献
  • 千葉真郎『石橋忍月研究 評伝と考証』八木書店、2006年

脚注

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  1. ^ 上田正昭ほか監修 著、三省堂編修所 編『コンサイス日本人名事典 第5版』三省堂、2009年、104頁。 

外部リンク

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