石橋和義
石橋 和義(いしばし かずよし / まさよし[1])は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。吉田義博の子[2]。石橋氏初代当主。足利直義派の宿将と言われるが、観応の擾乱初期から尊氏派としての旗幟を鮮明にしている。
時代 | 鎌倉時代後期 - 南北朝時代 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 不詳 |
改名 | 氏義(初名)、和義、入道心勝 |
別名 | 尾張三郎(通称) |
官位 | 正五位下、従四位下、左近将監、三河守、左衛門佐 |
幕府 | 室町幕府 引付頭人 |
氏族 | 河内源氏、石橋氏 |
父母 | 父:足利義博 |
子 | 棟義、義幸 |
特記 事項 | 石橋氏初代 |
生涯
編集1336年に山陽・山陰の国人らに軍勢催促状を発し、足利尊氏西走の際に備前国三石城にて、城主として新田勢の猛攻をしのぎ、尊氏の西下・東上を助けた。播磨国白旗城に籠城した赤松則村(円心)と共に、尊氏の捲土重来を支えた最大の功労者と言えよう。
建武4年(1337年)正月から同5年正月頃まで、「南都大将」として、奈良の警固にあたっている[4]。同年3月〜4月頃、伯耆国守護を務めた[4]。
1338年に若狭国守護斯波時家の加勢のため赴き、この頃に左衛門佐に任官された。1339年から1年余り備後国守護として赴任。暦応4年(1341年)から室町幕府引付頭人に就任。康永元年(1342年)から官途奉行を務めた[5]。同職は直義が管轄しており、直義との関係がうかがえる[5]。1345年、正五位下、1351年、従四位下。
観応元年(1350年)、尊氏らは、足利直冬を討つため備前国福岡に到るが、直義挙兵の報を聞き、和義を残して帰京した[6]。翌2年(1351年)4月、和義も帰京した[6]。その後、尊氏・直義の和睦を経て、両者が再び決裂する中、7月29日、突然出家し、「入道心勝」と称した[6]。
観応3年(1352年)、直義死去。同年、直冬や南朝方の山名氏が備前国鳥取庄などに侵攻すると、和義は「大将」「武家方大将軍」として出撃した[7]。
1352年から1357年まで再び引付頭人を勤め、尊氏が鎌倉に在した時は足利義詮を補佐し、幕府の宿老として評定衆筆頭にまで昇りつめた。
尊氏死後
編集延文3年(1358年)4月、尊氏死去。同年6月、尊氏への贈位贈官につき、義詮の代理として参内。通常、足利一門は天皇に拝謁できないため、洞院公賢は「一族として参上御対面は常儀にあらず」と評した(『園太暦』)[8][9]。
康安元年(1361年)10月、若狭国守護に就任[9]。その後、同族の斯波高経と対立。貞治2年(1363年)8月、若狭守護を解任され(後任は高経)、幕閣の中枢からも外れた[10]。
しかし高経失脚と共に復権。1370年から子の棟義を援けるため、奥羽に赴き、永徳元年(1381年)頃まで在国の痕跡を残す[10]。和義は80歳前後まで存命だったようである[11]。
和歌
編集和義は歌人でもあった[12]。
- 聞くだにも、あや(危)ふき淵の薄氷、臨むに似たる、世を渡る哉
その後の石橋氏
編集名字について
編集谷口雄太によると、石橋氏が「足利」を名乗るのは、1340年代が最後で、他の御三家である吉良氏、渋川氏と同時期であるという[13]。その後、名字不記入の「尾張」(尾張左衛門佐)を経て、1360年代には「石橋」が広く用いられる[13]。
脚注
編集- ^ a b 谷口 2022, p. 30.
- ^ 上田正昭ほか監修 著、三省堂編修所 編『コンサイス日本人名事典 第5版』三省堂、2009年、103頁。
- ^ 谷口 2022, p. 134.
- ^ a b 谷口 2022, p. 136.
- ^ a b 谷口 2022, p. 137.
- ^ a b c 谷口 2022, p. 59.
- ^ 谷口 2022, pp. 138–139.
- ^ 谷口 2022, p. 70.
- ^ a b 谷口 2022, p. 140.
- ^ a b c 谷口 2022, p. 141.
- ^ a b 谷口 2022, p. 71.
- ^ 谷口 2022, p. 142.
- ^ a b 谷口 2022, p. 52.
参考文献
編集関連文献
編集- 群書類従巻第四百廿四『見聞諸家紋』 - 国立公文書館デジタルアーカイブ