熙宗 (高麗王)
高麗の国王
熙宗(きそう、1181年6月21日 - 1237年8月31日)は第21代高麗王(在位:1204年 - 1211年)。姓は王、諱は韺、初名は淵、悳、諡号は仁穆誠孝大王。神宗と靖和太后金氏の長子。妃は寧仁侯王稹の娘、成平王后任氏。娘に高宗妃安恵王后、元宗妃慶昌宮主柳氏を生んだ嘉順宮主など。
熙宗 王韺 | |
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高麗 | |
第21代国王 | |
王朝 | 高麗 |
在位期間 | 1204年2月7日 - 1212年1月30日 |
姓・諱 | 王韺(初名:淵、悳) |
諡号 | 仁穆誠孝大王 |
廟号 | 熙宗 |
生年 |
大定21年5月8日 (1181年6月21日) |
没年 |
嘉熙元年8月10日 (1237年8月31日) |
父 | 神宗 |
母 | 靖和太后 |
王后・王配 | 成平王后 |
子女 | 下記参照 |
陵墓 | 碩陵 |
略年表
編集- 1181年 神宗の第1子として生まれる。
- 1196年 崔忠献政権が成立(武臣一族・李氏を滅ぼして政権を牛耳る)→1219年に崔忠献は死去するが、1258年まで4代62年の長きにわたって続く。
- 1197年 明宗を廃位、神宗を王位につける。
- 1198年 開京で私奴、万積らの反乱。
- 1198年 溟州(江陵)、東京(慶州)、陜州など各地で反乱。
- 1204年 熙宗即位。
- 1205年 崔忠献を晋康郡開国侯に封じる。
- 1211年 崔忠献より政権を王濬明らと奪回しようと計画するも、発覚し廃位される。江華から紫燕島(現・永宗島:月尾島から西北に2.5キロ)に流される。
- 1215年 喬洞に移される。
- 1219年 開京に迎えられる。娘の徳昌宮主と崔忠献の子の崔珹が結婚する。
- 1227年 復位の企てがあるとして、崔瑀により追放される。
- 1237年 龍遊島の法天精舍にて死去。江都に埋葬された。
家族
編集脚注
編集典故新羅眞聖主十一年弓裔撃破穴口 ○高麗明宗二十七年崔忠獻廢王放太子璹于江華 熙宗六年還京即康宗 神宗七年崔忠獻廢王遷于江華尋移紫燕島放太子祉于仁州後王薨于法天精舎 熙宗七年崔忠獻廢王遷于江華尋移喬桐 高宗十九年崔瑀忠獻之子後改名怡發三領軍營宮闕于江華王發開京次于昇天府入御江華客館崔瑀迎熙宗於紫燕島前自喬桐又移于此 二十一年徴諸道民丁營宮闕及百司崔瑀徴州縣軍加築縁江堤岸 三十三年幸禪源社 四十年八月習水戰于甲串江蒙兵十餘騎摽掠甲串江外 四十二年蒙兵二十餘騎到甲串江外蒙兵二十餘騎到昇天府京城戒嚴 四十三年蒙兵到窄梁外崔沆瑀之子使都房分守要害 四十五年蒙兵三百餘騎來屯甲串江外蒙兵自窄梁來屯甲串江外籠絡山野 四十六年蒙古元帥松吉遣使來壊江都内外城命營假闕於三郞城及神泥洞