織田秀則
安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将
(津田秀則から転送)
織田 秀則(おだ ひでのり)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。美濃岐阜城主・織田信忠の次男。織田秀信は異母兄。諱は秀利とも。洗礼名はパウロである。織田信長の孫にあたる。
時代 | 安土桃山時代 - 江戸時代初期 |
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生誕 | 天正9年(1581年) |
死没 | 寛永2年10月27日(1625年11月26日) |
改名 | 吉丸(幼名)、秀則、宗爾、英厳(法名) |
別名 | 津田忠信、左衛門尉・御吉侍従(通称) |
戒名 | 拾松院英厳雄公 |
霊名 | パウロ |
官位 | 従四位下、侍従 |
主君 | 豊臣秀吉→秀頼 |
氏族 | 織田氏 |
父母 | 父:織田信忠、母:不詳 |
兄弟 | 秀信、秀則 |
妻 | 豊臣秀勝の娘 |
子 | 小笠原因幡守側室 |
生涯
編集慶長元年(1596年)頃、大坂城下で暮らしており、キリスト教に入信し、パウロという洗礼名を得る。なお、兄秀信も同時にキリスト教に入信する。ルイス・フロイスは秀則を「素性を知らずに彼と少し話した場合、その品格によりドイツの貴族と判断してしまう」と評している[1]。慶長3年(1598年)京都妙心寺の塔頭として見性院を創建する。見性院はのち美濃の石河氏により桂春院として整えられ、現在も存続している。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いに際しては、兄と共に西軍に属し、美濃岐阜城に篭城する。一般には偽書とされる『江源武鑑』巻十八では織田兵部、津田藤右衛門らとともに、秀信の弟織田左衛門が大いに働きがあったと記述されている[2]。 戦後、兄秀信は改易となり、秀則は豊臣家を頼り、大坂城下に移り住む。その後、豊臣家の滅亡にともなって、京都に移り住む。晩年は剃髪し、宗爾と称した。津田信益と改名したとも伝わるが、同名の別人の可能性もあり詳細は不明である。