森岡二朗
この記事で示されている出典について、該当する記述が具体的にその文献の何ページあるいはどの章節にあるのか、特定が求められています。 |
森岡 二朗(もりおか じろう、1886年5月1日 - 1950年12月20日)は、日本の内務・警察官僚。官選県知事、台湾総督府総務長官。
来歴・人物
編集森岡万平の二男として奈良県山辺郡丹波(現:天理市)で生まれる。郡山中学、四高を経て、1911年7月、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)を卒業。同年11月、文官高等試験に合格し内務省に入省。兵庫県警部に任官し警察部保安課に配属された。
1912年10月、兵庫県出石郡長に就任。以後、兵庫県理事官、同県警視、青森県警察部長、神奈川県警察部長、警視庁刑事部長、警視庁官房主事、京都府書記官・内務部長などを歴任。
関東大震災(1923年)当時は神奈川県警察部長で、大阪府知事、兵庫県知事、千葉県知事、茨城県知事、横須賀鎮守府、横須賀軍港停泊中の艦船および大阪朝日新聞社と大阪毎日新聞社に至急官報で救援を要請した[1]。この打電のために横浜沖に停泊中のコレア丸まで泳いで伝えたエピソードがある[2]。
1926年9月、島根県知事に就任し、さらに、青森県・茨城県・栃木県の各知事を歴任。1929年11月、朝鮮総督府に転じ、警務局長となる。1931年6月に退任し、同年12月、内務省警保局長に就任。1932年1月、桜田門事件により文官懲戒令の懲戒処分(二ヶ月間年俸月割額十分の一減額)を受け、同年5月に退任した。
趣味は野球観戦でそれが高じて神宮球場に近い千駄ヶ谷に居を構えた[2]。1936年には職業野球旗揚げに際して大東京軍取締役社長に就任している[3]。
1936年9月、小林躋造予備海軍大将の台湾総督就任に伴い総務長官に登用された。1940年5月、小林総督の退任と共に辞任。1941年3月から日本野球連盟初代会長に就任し、戦時下におけるプロ野球存続に尽力[2]。
1945年の東京大空襲で千駄ヶ谷の自宅が焼失したため、しばらく地元の奈良で過ごした[2]。1947年10月に公職追放となった。1950年12月20日死去。64歳没。1969年に野球殿堂入りした[2]。
備考
編集2023年(令和5年)6月、下野新聞が「歴代知事はどんな人?」という特集記事を組んで調べていたところ、『県議会史』第4巻(1989年、栃木県議会発行)の肖像画が別人であることが判明した[4]。同書に掲載された肖像画は森岡の後任で栃木県知事に就いた牛島省三とみられている[4]。
脚注
編集- ^ 田原啓祐. “関東大震災後における逓信事業の復旧と善後策”. 郵政博物館. 2023年6月15日閲覧。
- ^ a b c d e 立花典子. “殿堂入りの人々を語る(57)祖父森岡二朗の思い出”. 野球殿堂博物館 Newsletter 第27巻 第3号. 公益財団法人野球殿堂博物館. p. 5. 2023年6月15日閲覧。
- ^ 日本職業野球連盟公報 第1号 (PDF) 野球殿堂博物館デジタルアーカイブ
- ^ a b “栃木県第23代森岡知事の肖像画、別人だった 実は...牛島茨城県知事か”. 下野新聞 (2023年6月15日). 2023年6月15日閲覧。
参考文献
編集
公職 | ||
---|---|---|
先代 浅利三朗 |
朝鮮総督府警務局長 第6代:1929年 - 1931年 |
次代 池田清 |
先代 平塚廣義 |
台湾総督府総務長官 第15代:1936年 - 1940年 |
次代 斎藤樹 |