森喜作
森 喜作(もり きさく、1908年(明治41年)10月4日 - 1977年(昭和52年)10月23日)は、群馬県桐生市出身の農学者である。森産業株式会社創業者。歴史学者の羽仁五郎は叔父。
森 喜作 (もり きさく) | |
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生誕 |
1908年10月4日 群馬県桐生市 |
死没 |
1977年10月23日(69歳没) 香港 |
研究分野 | 農学 |
出身校 | 京都帝国大学農学部卒業 |
主な業績 | シイタケの人工培養法の発明 |
主な受賞歴 |
有栖川宮賞(1948年) 発明賞(1951年) 藍綬褒章(1953年) 紫綬褒章(1960年) 紺綬褒章(1962年) 従四位勲二等瑞宝章(1977年) |
プロジェクト:人物伝 |
略歴
編集- 1908年 桐生随一の素封家・森家の次男として誕生。
- 1921年 桐生北尋常小学校卒業。
- 1926年 旧制・群馬県立桐生中学校卒業。
- 1930年 旧制・宇都宮高等農林学校卒業。
- 1932年 大学在学中、大分県の山村でシイタケ栽培に失敗して悲嘆に暮れる老人の姿を見て、シイタケの人工栽培を志す。
- 1935年 京都帝国大学農学部農林経済学科卒業。
- 1936年 森食用菌蕈研究所設立。
- 1943年 株式会社森農場を設立し社長となる。純粋培養菌種駒法(たねごまほう)を発明し特許取得。
- 1946年 森産業株式会社(名称変更)社長就任。
- 1953年 藍綬褒章受章
- 1960年 紫綬褒章受章
- 1962年
- 1973年、日本きのこ研究所初代理事長に就任。学生時代に人工栽培を志した大分県日田郡大山町(現:日田市)に銅像が建てられる。
- 1977年10月23日、香港で客死。69歳。戒名:大威徳院殿高勲喜道作宝大居士。桐生市名誉市民に推挙(初の公選市長・前原一治に次ぐ2人目)[2]。従四位勲二等瑞宝章を追贈。
トピックス
編集森は新たな人工栽培法を発明すると、真っ先に大分の老人に種駒をプレゼントした。この話は美談として1961年に小学6年生の国語教科書に取り上げられた[3]。
主な著作・論文
編集著作
編集- 森喜作、森登喜子『家庭きのこ 作り方・食べ方』家の光協会、1974年。ISBN 978-4-259-53352-6。
- 『シイタケのつくり方』農山漁村文化協会、1982年。ISBN 978-4-540-74015-2。
論文
編集- 「礫耕キュウリにおける疫病の発生」日植病報 (1963)
- 「礫耕キュウリ疫病に関する研究 第1報 病原菌の培養液中における遊走子のうの形成」日植病報 (1965)
- 「れき耕栽培のウリ類疫病の生育中薬剤防除」日植病報 (1967)
- 「れき耕キュウリの疫病防除に関する研究」静岡農試研報 (1968)