東信二

日本の競馬評論家

東 信二(あずましんじ、1951年11月24日 - )は、東京都豊島区池袋出身の元騎手・現競馬評論家

東信二
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 東京都豊島区池袋
生年月日 (1951-11-24) 1951年11月24日(73歳)
身長 160.0cm(1998年)[1]
体重 52kg(同上)[1]
騎手情報
所属団体 日本中央競馬会(JRA)
所属厩舎 中山美浦境勝太郎(1970年 - 1987年)
美浦・フリー(1987年 - 1993年)
美浦・谷原義明(1993年 - 1997年)
美浦・フリー(1997年 - 1998年)
初免許年 1970年3月1日
免許区分 平地
騎手引退日 1998年5月31日
重賞勝利 21勝
G1級勝利 3勝
通算勝利 5310戦513勝
(中央5293戦512勝/地方17戦1勝)
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経歴

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生家は池袋駅の近くで自転車を預かる仕事と碁会所を営んでおり[2]、7人兄弟の末子(姉5人と兄1人)として生まれる。

少年時代は歌手を志し、中学校卒業を前にした進路決定の際に母親にそのことを打ち明けるが、姉に「あんたの声じゃ無理」と言われ、目標を騎手に切り替える。東には中学2年時に林間学校で訪れた霧ケ峰高原の牧場で乗馬を経験し、夢中になったことがあった[3]1967年馬事公苑騎手養成長期課程に17期生として入所し、同期には小島貞博吉沢宗一などがいた[4]

3年間の講習を経て騎手試験に合格し、1970年中山競馬場白井分場境勝太郎厩舎からデビュー。境には厳しく教育され、漫然と騎乗しているように見えると鉄拳制裁を受けたという[5]。1年目の同年は3月1日東京第5競走4歳未勝利・スミタマサル(14頭中2着)で初騎乗を果たし、同馬に騎乗した同22日の中山第4競走4歳未勝利で初勝利を挙げた[1]。同期の中で最多の15勝を挙げると、2年目の1971年には34勝を挙げ、関東リーディング8位に入る。同年はダイトモナークでセントライト記念ベルワイドの2着と好走し、菊花賞で史上最年少(当時[† 1])でのクラシック騎乗を果たした[6]

その後も関東リーディング10位以内に入る活躍を見せ、1973年まで3年連続30勝台を記録。1972年桜花賞ではキョウエイグリーンで4ハロンを45秒台で通過するハイペースの逃げを打ち、直線でアチーブスターに捕らえられると一杯になるが、最後はハジメローズ・センコウミドリ・トクザクラにも交わされながらも5着と掲示板を死守。秋はクイーンステークスタカイホーマの2着に入り、古馬相手のスプリンターズステークス牝馬東京タイムズ杯を共に3着とする。1973年はスプリンターズステークスで連覇狙うノボルトウコウをクビ差抑えてレコード勝ちし、重賞初勝利を飾ると、1974年安田記念ナスノチグサニットウチドリサクライワイを抑えて勝利。

その後は小島太が境の娘婿になったことで厩舎の有力馬を小島に奪われるようになる[† 2]が、境は後の回想で「東には随分悪いことをした。彼の腕が劣っているわけではないのに…」と、小島の後援者で、後に小島と専属契約を結び、境厩舎の大半を占めるさくらコマースの全演植オーナーの意向で小島を使い続けなければならなかったことを嘆き、謝っている。これにより東の年間勝利数は減少したが、重賞で存在感を見せ、「代打男」と呼ばれるようになる[7]

サクラシンゲキでは1979年函館3歳ステークスを3連勝で制し、1981年にはスプリンターズステークスで皐月賞ハワイアンイメージを含む後続に6馬身差を付けて圧勝すると、1982年マイラーズカップでは2着に敗れたもののオペックホースケイキロクハッピープログレスを封じた。

1981年の有馬記念では二本柳俊夫厩舎がホウヨウボーイアンバーシャダイを出走させるが、2頭の主戦騎手であった加藤和宏がホウヨウボーイを選択したため、東がアンバーシャダイ騎乗の機会を得た。レースでは引退レースで連覇を狙うホウヨウボーイを破って、八大競走を含むGI級レース初制覇を成し遂げる。

1987年には周囲の勧めもあり、フリーとなる。騎手生命のあるうちに自分の実力を試してみたいと考えての決断であったが、同時に「5年やって軌道に乗れなかったら、オレはダメかもしれない」という恐れもあったという[8]。同年にはサクラスターオー皐月賞菊花賞を勝利するが、年末の有馬記念のレース中にサクラスターオーは左前脚を故障し、闘病の末に1988年5月に死亡。故障の瞬間、東は「オレの人生終わったな」と思ったという[9]。サクラスターオーも本来なら小島太が騎乗する筈であったが、小島と全との対立で一時期「サクラ」が付く馬は東が騎乗していた。

1988年はアインリーゼンで4歳牝馬特別(東)アラホウトクシヨノロマンの3着、本番の優駿牝馬でもコスモドリームの3着に入る。1990年以降は年間勝利数が10勝以下に低迷するが、1991年にはサンエイサンキューで函館3歳Sを14頭中12番人気ながら2着に入ると、阪神3歳牝馬Sではニシノフラワーの2着、1992年にはクイーンカップを制す。1993年からは谷原義明厩舎所属となり、1994年にはセントライト記念・ウインドフィールズでエアダブリンサクラローレルを破る。厩舎に初の重賞タイトルをもたらすが、東にとっては最後の重賞制覇となった。騎手生活の晩年は騎乗数の減少に苦しみ、「あいつに頼むくらいならオレを乗せろよ」と思うことも多かった。1998年4月12日の中山第3競走4歳未勝利・ウエスタンレジーナが最後の勝利となり、5月31日の東京第3競走4歳未勝利・ステートリーシチー(18頭中13着)を最後に現役を引退[10]。騎手としての通算成績は中央競馬5,293戦512勝(重賞21勝)[1]、地方競馬17戦1勝[11]であった。

引退後は馬に乗り続けたいという希望から調教助手への転身も考えたが、有力厩舎には新たに調教助手を雇用する余裕がなく、断念せざるを得なかった[12]。競馬評論家に転身し、フジテレビBSフジ制作の競馬中継において準レギュラー格の解説者として活躍。フジテレビの「スーパー競馬」でGI開催時に解説を担当することが多かったが、『みんなのKEIBA』になったころの競馬番組は同じ元騎手で競馬評論家の岡部幸雄2005年引退)や安藤勝己2013年引退)の出演が多くなり、「BSフジ競馬中継」や福島・新潟開催の独自中継の側に出るようになっている。地上波では「NSTみんなのKEIBA」に主に出演。

エピソード

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  • 以前フジテレビで放送されていた予想番組「あしたのG」レギュラー出演時のキャラクター名から、「シンジマン」の愛称を持つ。

騎手成績

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通算成績 1着 2着 3着 4着以下 騎乗回数 勝率 連対率
中央 512 526 488 3765 5291 .097 .196
地方 1 1 0 15 17 .059 .118
513 527 488 3780 5310 .097 .196
日付 競馬場・開催 競走名 馬名 頭数 人気 着順
初騎乗 1970年3月1日 3回東京4日5R 4歳未勝利 スミタマサル 14頭 2 2着
初勝利 1970年3月22日 1回中山2日4R 4歳未勝利 スミタマサル 19頭 1 1着
重賞初騎乗 1971年1月17日 1日東京7日10R アメリカJCC ミスシゲヨシ 7頭 7 7着
重賞初勝利 1973年9月30日 4回中山6日10R スプリンターズS キョウエイグリーン 10頭 1 1着
GI級初騎乗 1971年11月14日 5回京都3日9R 菊花賞 ダイトモナーク 19頭 5 9着
GI初勝利 1981年12月20日 5回中山8日9R 有馬記念 アンバーシャダイ 16頭 3 1着

主な騎乗馬

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太字はGIレース

その他

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著作

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  • 『東信二の競馬は記憶力だ』(2003年、ベストブック)

脚注

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注釈

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  1. ^ 後に武豊が記録更新。
  2. ^ 尚、小島は後にその妻と離婚している。

出典

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  1. ^ a b c d 引退騎手情報  東 信二(アズマ シンジ)”. 日本中央競馬会. 2015年6月18日閲覧。
  2. ^ 河村2003、38頁。
  3. ^ 河村2003、40頁。
  4. ^ 井口2004、77-78頁。
  5. ^ 河村2003、43-44頁。
  6. ^ 河村2003、44頁。
  7. ^ 河村2003、44-45頁。
  8. ^ 河村2003、46頁。
  9. ^ 河村2003、46-47頁。
  10. ^ ニュースぷらざ”. ケイバブック. 2015年6月29日閲覧。
  11. ^ 東 信 二”. 地方競馬全国協会. 2015年6月18日閲覧。
  12. ^ 河村2003、47-48頁。

参考文献

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  • 河村清明『三度怒った競馬の神様 サラブレッドに魅入られた男たちの物語』二見書房、2003年。ISBN 4576032267 
  • 井口民樹『瀬戸際の勝負師 - 騎手たちはそのときをどう生きたか』VIENT、2004年。ISBN 4768488838