東久邇成子
東久邇 成子(ひがしくに しげこ、1925年〈大正14年〉12月6日 - 1961年〈昭和36年〉7月23日)は、日本の旧皇族。盛厚王の妃。勲等は勲一等。旧名は、成子内親王(しげこないしんのう)、諱は成子(しげこ)、御称号は照宮(てるのみや)[1]、お印は紅梅 (こうばい)[2]。結婚から皇籍離脱前までの名は、盛厚王妃 成子内親王(もりひろおうひ しげこないしんのう)。昭和天皇と香淳皇后の第1皇女子(2男5女のうち第1子)。第126代天皇徳仁、秋篠宮文仁親王、島津禎久は甥、黒田清子(紀宮清子内親王)は姪に当る。また、久宮祐子内親王、鷹司和子、池田厚子、島津貴子は妹に、第125代天皇・明仁(上皇)と常陸宮正仁親王は弟に当る。
東久邇 成子 (盛厚王妃 成子内親王) | |
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東久邇宮家 | |
続柄 | 昭和天皇第1皇女子 |
全名 | 東久邇 成子(ひがしくに しげこ) |
称号 | 照宮(てるのみや) |
身位 | 内親王 → 王妃内親王 → (皇籍離脱) |
敬称 | 殿下 → (皇籍離脱) |
お印 | 紅梅 |
出生 |
1925年12月6日 日本・東京府東京市赤坂区 東宮仮御所(赤坂離宮) |
死去 |
1961年7月23日(35歳没) 日本・東京都千代田区千代田 皇居・宮内庁病院 |
埋葬 |
1961年8月4日 日本・東京都文京区大塚 豊島岡墓地 |
配偶者 | 東久邇盛厚(盛厚王)(1943年 - 1961年) |
子女 |
東久邇信彦(信彦王) 高木文子(文子女王) 壬生基博(東久邇秀彦) 東久邇真彦 東優子 |
父親 | 昭和天皇 |
母親 | 香淳皇后 |
栄典 |
勲一等宝冠章 |
称号:内親王 | |
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生涯
編集誕生
編集1925年(大正14年)12月6日午前、皇太子妃良子女王(当時)は散歩の途中に出産の兆候があり、午後6時頃に産殿に入った[3]。午後8時10分、皇太子裕仁親王(当時)と同妃良子女王の第1子[注 1]として誕生[4]。出産予定は11月下旬と発表されていたため、待ちわびる市民から侍医らに批判も起きていた[5]。誕生時の身長は1尺6寸3分(約49cm)、体重は873匁(約3270g)[6]。
1923年(大正12年)関東大震災以来の不景気等暗い世相の中、皇太子妃の懐妊、そして大正天皇・貞明皇后の初孫誕生は明るいニュースであった。成子内親王の誕生は国民から盛大な祝福を受け、民間でもさまざまな祝賀が行われた。東宮仮御所である赤坂離宮から四谷見附まで、内親王誕生を喜ぶ人々で埋まった[5]。皇宮警察官の回想では、その中でも特に朝鮮人の団体が日の丸の旗や提灯を掲げ、朝鮮の音楽とともに祝賀していた姿が印象的であったという[5]。また先述の背景から、皇太子妃良子女王の妊娠出産に関する報道も多く、以後、新聞における皇室報道でも女性皇族の妊娠出産に関する報道が増えるきっかけとなった[7]。
同年12月12日、命名の儀が行われ『易経』より「恒」を由来として「照宮 成子」と命名された[8][9]。
翌1926年(大正15年)3月30日、初めて参内し大正天皇・貞明皇后と対面した際には、沿道に大勢の市民が集った[10]。
養育を巡って
編集皇太子裕仁親王・同妃良子女王の意向もあり、里子には出されず両親の手元で養育される[11]。全国から3人の乳人が選ばれた[12]が、夜中以外は使わず[13]、当時としては画期的なことであった。
成子内親王が満1歳の誕生日を迎えた直後、1926年(昭和元年)12月25日、祖父・大正天皇の崩御に伴う父・皇太子裕仁親王の践祚により、成子内親王は天皇の第一皇女になり、また、自身の満年齢が昭和と同一になった。成子内親王は幼稚園には通園しなかったが、選ばれた学友達が葉山御用邸や赤坂離宮へ参内し、また成子内親王が幼稚園を訪問したり吹上御苑や新宿御苑等で幼稚園児らと交流を持った[14]。この頃、昼食の際に「だいじなだいじなおもうさまとおたあさま」と微笑みながら発語したという[15]。
しかし、その後、「昭和天皇と香淳皇后の側では養育係が仕えにくく、結果わがままに育った」という批判を受けるようになった。そのため女子学習院入学を控えた1931年(昭和6年)10月、旧本丸内に呉竹寮の建設が決定[16]。翌1932年(昭和7年)4月6日から呉竹寮に移り、家族と別居した。4月9日に女子学習院へ入学。
呉竹寮は、当初から1932年(昭和7年)時点で誕生していた妹宮達が入寮することができるよう設計され、後に学齢を迎えた妹宮たちと共に生活するようになる[17]。また選ばれた級友が5-6名ずつ輪番で呉竹寮を訪問した。前田美意子[18][19]や小堀臣子[20]の回想によれば、体温測定を行い訪問専用の制服に着替えた上で御所に上がっていたという。穂積美代子や前田美意子ら特に親しい学友は、これ以外に招きで呉竹寮や葉山御用邸に「お内緒」で招かれていた[21][22]。また学友らは、宮内省からの辞令を受けていた[23]。
学習院では「成子内親王」と表記されていたが、入学当初は自身「シゲコ」と名のみ記名し、学友たちは「宮様」と呼んでいた[24]。成長・進級に伴い、自筆でも「成子内親王」を用いた[25]。教室への登校の前に控室に立ち寄ることと、女官が授業参観をしていた以外は、他の学友達と同じだった[24]。食事に関しては、宮内省の大膳職の作ったものしか口にできないため、学校が用意した水分(お茶、運動後の冷水)ではなく魔法瓶で持参していた[26]。
土曜日の午後、天皇・皇后が呉竹寮を訪問し、日曜の午後は成子内親王が宮城を訪問して、家族の時間を持った[27]。しかし、成子内親王が宮城に宿泊したことは殆ど無く、例外の一つが1936年(昭和11年)2月28日、二・二六事件の折であった[27]。1936年(昭和11年)の5月から夏季休暇まで、百日咳のため葉山で療養した以外は、健康状態は良好であり、また運動神経もよく水泳が得意であった[28]。学習院時代は理科[29]と作文[30]が得意だったといわれる。1937年(昭和12年)頃から休暇の際には全国各地を単独で訪問するようになる。
学習院中等科では、学業優秀なだけでなく、スポーツ競技会での活躍、英語劇でのヒロイン役(白雪姫)、合唱等を活発に行い、全校生徒の模範であった。反面、一般的な少女らしい性格面もあり、男性教師に憧れを抱いて積極的に質問したり、海軍の制服に憧れを持っていた[31]。しかし、東久邇宮家の盛厚王と婚約が内定してからは「今日から、私は陸軍党になりますから」と学友たちに笑って話した[32]。
女子学習院中等科の4・5年生次には、『反省録』を記し、主管(担任教師)の指導を受けていた。天皇の神格化が進む時代にあって、中等科5年生(1942年〈昭和17年〉)の10月26日付で、次のような反省録を記した[33]。
「 | 私はどういうめぐりあわせか高貴な家に生まれた。私は絶えず世間の注視の中にある。いつどこにおいても私は優れていなければならない。私は皇室を背負っている。私の言動は直ちに皇室にひびいてくる。どうして安閑としていられよう。高い木には風が当たり易い。それなのに高きにありながら多くの弱点をもつ自分をみるとき、この地位にいる資格があるか恐ろしくなる。 | 」 |
—秋元書房『皇女照宮』 p.86 |
内約期間
編集成子内親王は生物学に関心を持ち、父帝の研究所での勤務を希望していたというが、1941年(昭和16年)5月に東久邇宮稔彦王の第1男子・盛厚王(父帝・母后それぞれの父方の従弟)との婚約が内定(内約)し公表された[34]。
1943年(昭和18年)3月に女子学習院中等科卒業。学業成績は極めて優秀だった[35]が、高等科へは進学せず花嫁修業をする[36]。
麹町三番町を仮寓所とし、華道や器楽(ピアノ、ヴァイオリン)、マナー、和歌や料理などを学んだが、成子内親王自身は掃除など今までしたことがない経験や、将来の新しい生活を楽しみにしている様子だった[37]。
後年、結婚に前後した心境を次のように語った[38]。
「 | お式の日、御所をあとにしたときも悲しくもなく、不安な気持ちも、嬉しい気持ちもありませんでした。まだそのときは盛厚さんに対しても愛情を感じるほどに至っていなかったのでしょう。でも盛厚さんはまじめな人だったから、素直に尽くすことが出来ました。両方とも一年くらいたってからだんだん愛情が湧いてきました。 | 」 |
—秋元書房『皇女照宮』 p.139 |
皇族妃として
編集1943年(昭和18年)10月2日に納采の儀が執り行われ、正式に婚約した[39]。同年10月12日、結婚を控え勲一等宝冠章を賜り、翌日の10月13日に盛厚王(当時は陸軍少佐)と結婚する[40]。第二次世界大戦中であり、皇女の婚儀とはいえ質素にとり行われ、伊勢神宮への参拝のみで新婚旅行もなかった。着用した十二単は、母・香淳皇后のものだった。姉妹の中では体格が香淳皇后によく似ており、結婚の際に体の寸法を測ったところ、皇后の結婚当時の体型とぴったりと一致したという。
夫となった盛厚王とは見合いを経ずに結婚したため、「夫婦として心を通わせるのに時間がかかった」という。そのため妹の内親王たちは形式的とは言え、見合いの場が設けられた。しかしやがて互いに愛情が湧き、円満な家庭を築いた。1945年(昭和20年)3月10日、初産でもある信彦王出産時は東京大空襲の最中であり、防空壕の中で出産した。盛厚王との間には、信彦王、文子女王、基博(前名、秀彦。壬生家養子。)、真彦、優子の5人の子女を儲けた。5月25日の空襲で鳥居坂の邸宅が焼失したため、伊香保に疎開する[41]。
8月15日の玉音放送に際しては、涙にくれる東久邇宮家の中で「さあ、これからですよ」と第1声を発した[42]。また、今生の別れになると覚悟して、車で東京に向かい、天皇・皇后と面会した[42]。
日付は不明ながら、「昭和21年前田邸で」撮影された盛厚王、前田菊子及び酒井美意子などと共にフランス軍のジノーヴィー・ペシュコフ将軍[43]との記念写真がある[44]。
結婚相手が皇族であったため、成子内親王もまた皇族のままであったが、1947年(昭和22年)10月14日、東久邇宮稔彦王が皇族の身分を離れたため、皇室典範第13条の規定により、自身も夫・盛厚王と同時に皇族の身分を離れた[45]。以後は、「東久邇 成子(ひがしくに しげこ)」と名乗る。
皇籍離脱後
編集皇籍離脱後は終戦後のインフレーション等の厳しい社会情勢の中、皇族としての身分も経済的特権も失い、厳しい家計を内職をしながら助けたり、都内遠方でも商店街の特売に人目を忍んで並んだりと、元皇女とはいえ一般家庭の主婦並の苦労も多かった。特に、ヌートリアの養殖を独学で成功させたという逸話もある[46]。
1949年(昭和24年)夏、創刊間も無い雑誌『美しい暮しの手帖』第5号に大橋鎭子からの強い依頼を受けて「やりくりの記」を寄稿する。物資不足に悩みながらも「やりくり暮しのこの苦労のかげに、はじめて人間らしいしみじみとした、喜びを味う事が出来る」[47]とした成子の手記は大きな反響を呼び、『暮しの手帖』の部数拡大のきっかけとなった[48]。
1958年(昭和33年)1月2日、NHKのテレビ番組『私の秘密』に生出演。宮中でのカルタ会を中座しての出演であり、皇族たちもカルタそっちのけでTVに見入ったという[注 4]。
1959年(昭和34年)4月、実弟である皇太子明仁親王と正田美智子の結婚に際しては、二人を祝福するとともに「新しい仕事」を応援するメッセージを新聞に寄稿している[50]。成子自身も、同年6月3日に昭和天皇、香淳皇后、皇太子夫妻をはじめ両親と弟妹らを自宅へ招待してホームパーティーを開き、「家庭的な皇室のあり方」を実践して見せた[51]。
この他、盛厚が携わった団体の公私にわたる活動に成子も関わり、また子女教育にも熱心であった。
闘病と逝去
編集成子は、1960年(昭和35年)11月11日、国立東京第一病院に入院した[52]。成子自身には胃潰瘍と告げられた[注 5]が、実際には結腸癒着と腹壁腫瘍であり、末期がんであった[52]。父・昭和天皇は、12月16日、成子の手術結果を聞き「ダメだね」と答えたほどに、重篤な状態であった[52]。1961年(昭和36年)2月、退院[52]。
しかし、その僅か2か月後の4月より宮内庁病院に入院。これは、父である昭和天皇直々の願いであり、実際に天皇・皇后も頻繁に見舞いに訪れた。特に母親の皇后はほぼ毎日訪問しており、家族や知人の見舞いの際も皇后を通して成子の体調を確認する必要があった[53]。同年5月7日、天皇の還暦祝いのため皇居に参内したのが最後の外出となったが、既に衰弱し、宴の最中も後方のソファに横たわりながらの状態であった[54][53]。これは、宴を楽しみにしていた成子のために、天皇が医師の反対を押し切って配慮させたものであり、天皇は何度も成子が満足しているか確認した[53]。
初夏頃、成子が天皇・皇后に7月の予定を尋ねた際、天皇は成子の看病のために予定を中止にしていたにもかかわらず、(存在しない)予定がメモに書いてあるふりをして話したという[53]。
7月19日夕方から容体が悪化し、7月22日に危篤となった。そして1961年(昭和36年)7月23日午前3時15分、東久邇家の家族のほか、両親である昭和天皇・香淳皇后、皇太子夫妻ら弟妹の見守る中、逝去した。35歳没。
皇后は成子の手を握りしめたまま嗚咽し、天皇は「成子」とひとことつぶやいた[55]。妹の鷹司和子や池田厚子が、成子の死化粧を施した[55]。まだ35歳と若年であり、当時16歳の長男・信彦を筆頭に5人のまだ小さい子供を残しての逝去だった。天皇・皇后とも、第一子に先立たれたことに大きな衝撃を受けた。
没後
編集同日午後5時、成子の遺体は麹町三番町の宮内庁分室に移され、さらに午後7時30分に正田英三郎や鷹司平通により、かつて成子が花嫁修業で使っていた二階の一室に安置された[56]。その後、天皇・皇后をはじめとする皇族のみで、御舟入の儀(納棺)が行われた。成子の遺体は白羽二重の袿袴で、棺には花や絹の袋にいれた茶、そして遺児たちが描いた絵などが納められた[57]。
7月26日に葬儀が青山葬儀所で執り行われた後、遺体は火葬された。葬儀委員長は野村吉三郎衆議院議員(当時)であり、司祭長は伊達巽明治神宮宮司だった[56]。「天皇・皇后は目下の者の葬儀に参列しない」という慣習をはじめて破って参列した[56]。
8月4日に斂葬の儀が行われ、東京都文京区の豊島岡墓地に埋葬された。彼女の墓所には、母・香淳皇后の指示によって成子のお印の紅梅が植樹された。墓所は、盛厚の希望で比翼塚となっており、向かって左には盛厚のお印である松が植樹されている[58]。
尚、夫・盛厚は、1964年(昭和39年)10月3日に寺尾佳子と再婚し、厚彦(寺尾家養子)、盛彦の2男を儲けたが、1969年(昭和44年)に逝去している。
没後20年に当る1980年(昭和55年)、父・裕仁(昭和天皇)は、記者会見の中で「照宮は本当に朗らかな人で、私の話し相手として面白くあった」とした上で、「若くして亡くなったということを、大変残念に思っています」と振り返った[59]。
没後40年に当る2001年(平成13年)7月23日[60]、没後50年に当る2011年(平成23年)7月23日[61]には、弟・明仁と皇后美智子が、墓所に拝礼した。
年譜
編集栄典
編集系譜
編集成子内親王 | 父 昭和天皇 |
祖父 大正天皇 |
曾祖父 明治天皇 |
曾祖母 柳原愛子 | |||
祖母 貞明皇后 |
曾祖父 九条道孝 | ||
曾祖母 野間幾子 | |||
母 香淳皇后 |
祖父 邦彦王(久邇宮) |
曾祖父 朝彦親王(久邇宮) | |
曾祖母 泉萬喜子 | |||
祖母 俔子 |
曾祖父 島津忠義 | ||
曾祖母 山崎寿満子 |
子女
編集夫の東久邇盛厚(盛厚王)との間に、3男2女を出産し5人の子女を儲けた。
うち最初に出産した2人(1男1女)は皇族として、その後の3人(2男1女)は民間人(国民)として誕生している。
- 第2子・長女:文子女王(ふみこ) 1946年(昭和21年)-
- 第3子・次男:秀彦(ひでひこ) 1949年(昭和24年)-
- 第4子・三男:真彦(なおひこ) 1953年(昭和28年) -
- 子として2人の男子、照彦(1979年〈昭和54年〉- )と睦彦(1980年〈昭和55年〉- )がいる。
- 長男の照彦には、2004年(平成16年)生れの男子がいる。
- 次男の睦彦には、子として1人の男子。
- 第5子・次女:優子(ゆうこ) 1954年(昭和29年)-
- 東作興夫人。東久邇優子 → 東優子。
明治天皇 (1852-1912) 在位 1867-1912 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
大正天皇 (1879-1926) 在位 1912-1926 | 竹田宮恒久王 (1882-1919) | 昌子内親王 (1888-1940) | 北白川宮成久王 (1887-1923) | 房子内親王 (1890-1974) | 朝香宮鳩彦王 (1887-1981) | 允子内親王 (1891-1933) | 東久邇宮稔彦王 (1887-1990) | 聡子内親王 (1896-1978) | 昭和天皇 (1901-1989) 在位 1926-1989 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
昭和天皇 (1901-1989) 在位 1926-1989 | 竹田恒徳 (1909-1992) | 永久王 (1910-1940) | 朝香孚彦 (1912-1994) | 盛厚王 (1916-1969) | 成子内親王 (1925-1961) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
上皇 (明仁) (1933-) 在位 1989-2019 | 竹田恒正 (1940-) | 北白川道久 (1937-2018) | 朝香誠彦 (1943-) | 東久邇信彦 (1945-2019) | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
今上天皇 (徳仁) (1960-) 在位 2019- | 竹田家 | (男系断絶) | 朝香家 | 東久邇家 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ 宮內省圖書寮編 1939, p. 5.
- ^ 小松 2018, pp. 6–7
- ^ 北條, 酒井 & 霜山 1973, p. 15.
- ^ 大正14年12月6日『官報』号外。宮内省省告示第30号。[注 2]
- ^ a b c 北條, 酒井 & 霜山 1973, p. 18
- ^ 「內親王の御體重 おみ大きく拜せらる」『東京朝日新聞』朝日新聞社、1925年12月7日。
- ^ 原 2017, p. 379.
- ^ 大正14年12月12日『官報』号外。宮内省告示第33号。[注 2]
- ^ 「けふお七夜の佳き日 皇孫御命名の儀」『東京朝日新聞』朝日新聞社、1925年12月13日。
- ^ 「照宮殿下 初めての御參內 暖かき沿道に拜觀者の群」『東京朝日新聞』朝日新聞社、1926年3月30日、夕刊。
- ^ 「照宮の御養育は妃宮御手づから 御養育係長は置かぬ事に決定」『讀賣新聞』読売新聞社、1925年12月17日。
- ^ 北條, 酒井 & 霜山 1973, p. 21.
- ^ 高橋 1988, p. 290.
- ^ 北條, 酒井 & 霜山 1973, pp. 24–30.
- ^ 北條, 酒井 & 霜山 1973, p. 26.
- ^ 「照宮樣の御殿を宮城內へ御造營」『東京朝日新聞』朝日新聞社、1931年10月31日。
- ^ 北條, 酒井 & 霜山 1973, p. 37.
- ^ 酒井 1995, p. 160.
- ^ 北條, 酒井 & 霜山 1973, pp. 55–56.
- ^ 北條, 酒井 & 霜山 1973, pp. 56–58.
- ^ 岩佐 1997, p. 3.
- ^ 酒井 1995, pp. 160–161.
- ^ 岩佐 1997, p. 4.
- ^ a b 北條, 酒井 & 霜山 1973, p. 68
- ^ 北條, 酒井 & 霜山 1973, p. 286.
- ^ 北條, 酒井 & 霜山 1973, p. 70
- ^ a b 北條, 酒井 & 霜山 1973, p. 44
- ^ 北條, 酒井 & 霜山 1973, pp. 44–45.
- ^ 北條, 酒井 & 霜山 1973, p. 76.
- ^ 北條, 酒井 & 霜山 1973, p. 74.
- ^ 北條, 酒井 & 霜山 1973, pp. 104–105.
- ^ 北條, 酒井 & 霜山 1973, p. 105.
- ^ 北條, 酒井 & 霜山 1973, p. 86.
- ^ 「照宮成子內親王殿下 御配偶に東久邇宮盛厚王殿下 御めでたき御內約」『讀賣新聞』読売新聞社、1941年5月6日。
- ^ 「照宮成子內親王殿下 女子學習院中等科を けふ御卒業」『讀賣新聞』読売新聞社、1943年3月29日。[注 3]
- ^ 「お慶びの照宮樣・盛厚王殿下 拜すも畏し御二方の御日常」『朝日新聞』朝日新聞社、1943年5月16日。
- ^ 北條, 酒井 & 霜山 1973, pp. 132–133.
- ^ 北條, 酒井 & 霜山 1973, p. 139.
- ^ 昭和18年10月4日『官報』第5019号、89頁。宮廷録事。[注 2]
- ^ 昭和18年10月14日『官報』第5028号、317頁。宮内省告示第19号。[注 2]
- ^ 北條, 酒井 & 霜山 1973, p. 148.
- ^ a b 北條, 酒井 & 霜山 1973, p. 158
- ^ 1884-1966。スヴェルドルフの兄にしてゴーリキーの養子となったのでユダヤ教から正教会に改宗し、ゴーリキーの本名を姓と父称にしてジノーヴィー・アレクセーエヴィチ・ペシュコフとなる。日露戦争で徴兵を避ける為にロシアから亡命した後、ボリシェヴィキと絶縁したようで第一次世界大戦勃発に際してフランス外人部隊に入隊。右腕と引き換えに外人部隊の一兵卒から将軍に昇進した希有な経歴にもかかわらず、何故か日本で刊行された外人部隊ものの本では言及されない人物。1943年に国民政府がヴィシー政権を断交してフランス国民解放委員会を承認した時の駐華代表・フランス共和国臨時政府の駐華大使を経て、昭和21年から25年にかけて日本に駐在。
- ^ 『皇女照宮』秋元書房、1973年7月15日、167頁。
- ^ 宮内府『昭和22年宮内府告示第16号』。ウィキソースより閲覧。
- ^ 酒井 1995, p. 39.
- ^ 暮しの手帖社 1949.
- ^ 小榑雅章「大橋鎭子と暮しの手帖」『有鄰』第543号。、株式会社有隣堂(有隣堂)、横浜、2016年3月10日、1面。2022年12月31日閲覧。
- ^ 『私の秘密』日本放送協会、東京、1958年1月2日 。2022年12月31日閲覧。
- ^ 「末長いご幸福を」『讀賣新聞』読売新聞社、1959年4月10日。
- ^ 「両陛下、東久邇家ご訪問 12畳で17人の夕食 型破り“天皇ご一家”のつどい」『讀賣新聞』読売新聞社、1959年6月3日。
- ^ a b c d 北條, 酒井 & 霜山 1973, p. 241
- ^ a b c d 北條, 酒井 & 霜山 1973, p. 242
- ^ 1961年7月23日 読売新聞(夕刊)「東久邇成子さん逝去」
- ^ a b 北條, 酒井 & 霜山 1973, p. 254
- ^ a b c 北條, 酒井 & 霜山 1973, p. 260
- ^ 北條, 酒井 & 霜山 1973, pp. 260, 265.
- ^ 北條, 酒井 & 霜山 1973, pp. 270–272[注 6]
- ^ 高橋 1988, p. 289.
- ^ “天皇皇后両陛下のご日程(平成13年7月~9月)”. 宮内庁. 2022年12月31日閲覧。
- ^ “天皇皇后両陛下のご日程(平成23年7月~9月)”. 宮内庁. 2022年12月31日閲覧。
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参考文献
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- 暮しの手帖社『美しい暮しの手帖』 第5号、暮しの手帖社、東京、1949年10月。doi:10.11501/2226475。
- 女性自身編集部 編『昭和の母皇太后さま 昭和天皇と歩まれた愛と激動の生涯 保存版』光文社、2000年7月。ISBN 4334900925。
- 原武史『皇后考』講談社、2015年2月。ISBN 978-4062193948。
- 原武史『皇后考』講談社学術文庫、2017年12月。ISBN 978-4062924733。