木下氏
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木下氏(きのしたし)は、武家・華族だった日本の氏族。系譜の異なる諸家があるが、豊臣秀吉およびその妻高台院(北政所)の一族が最も著名。同家は木下藤吉郎(秀吉)が戦国武将として出世し、1573年に羽柴に改姓し、天下人となった後の1586年に豊臣の本姓を与えられた[1]。高台院の実家杉原氏も縁戚の家臣として取り立てられて木下氏への改姓を許され、大坂夏の陣で豊臣宗家(羽柴宗家)が徳川氏に攻め滅ぼされた後も備中国足守藩主家、豊後国日出藩主家などが存続し、明治維新後には両家とも華族の子爵家に列した[2]。
木下氏 | |
---|---|
本姓 | 豊臣氏 |
家祖 |
豊臣秀吉 木下家定 |
種別 |
武家 華族(子爵家) |
出身地 | 尾張国 |
主な根拠地 |
近江国長浜城 山城国伏見城 摂津国大坂城 備中国足守 豊後国日出 |
著名な人物 |
木下藤吉郎(豊臣秀吉) 木下家定 木下延由(豊臣国松?) |
凡例 / Category:日本の氏族 |
豊臣秀吉の生家と高台院の一族
編集出自
編集豊臣秀吉は自分の父系の先祖について明らかにはしていない。このため木下氏の系譜には諸説がある。浅井氏の分家と称する説があるものの、明確になっていない[3]。一説に、近江国浅井郡丁野村の住人・昌盛法師が還俗して木下弥助国吉と名乗り尾張国に移住したことに始まるという。昌盛は近江浅井氏の庶流・浅井忠政の弟であり、北近江の高島氏出身の木下越中守高泰の娘を娶って木下氏を称し、その子が秀吉の祖父・木下右衛門尉吉高、そして秀吉の父・木下弥右衛門昌吉と続き、尾張国愛知郡中々村(なかなかむら)の土豪として定着したという[4]。
一説によると秀吉は元々苗字持ちでなく、杉原定利から改名した木下祐久の娘おね(高台院)と結婚したことで「木下藤吉郎秀吉」を名乗るようになったという[5]。
高台院の実家である尾張国の杉原氏は家伝によれば平姓を称していたとされる。『木下家譜』によれば杉原氏は杉原光平を家祖とし、その十代目の子孫木下七郎兵衛家利の長女に杉原定利を婿養子に迎え、その次女が豊臣秀吉の正室高台院であるとする[6]。
安土桃山~江戸時代
編集木下藤吉郎秀吉(豊臣秀吉)は、尾張大名織田信長に仕え活躍し、北近江長浜城主となり織田家の重臣に列した。正確な時期は不明であるが、秀吉は苗字を「木下」から「羽柴」へと変更し、秀吉に仕えていた弟の秀長も追随した。さらに天下人となった後の1585年に関白に就任するに際して近衛前久の養子となって藤原、翌年太政大臣就任に及んで朝廷から豊臣の本姓を受けた[7]。
秀吉の正室高台院(北政所)の実兄家定も木下氏に改姓し、豊臣の本姓を与えられた[8]。家定は秀吉の直臣となり、2万5000石の姫路城主に取り立てられた。また子の勝俊は若狭国小浜6万石の領主に封じられ、次男の利房も高浜城3万国に封じられた。三男延俊・四男俊定もそれぞれ大名となっている。五男の秀俊は秀吉の養子とされたが後に小早川氏の養子となり、小早川秀秋と称した。秀吉は大名や家臣に羽柴の名字を与えることをしばしば行っているが、勝俊と秀秋はこれを受けていることが確認できる[8]。
関ヶ原の戦いでは勝俊は伏見城の戦いの前に退去したため、戦後に所領を没収された。西軍についた利房・俊定もそれぞれ所領を失っている。一方で延俊は東軍についたため、戦後になって加増され豊後国日出藩3万石の所領を与えられた。秀秋は55万石の太守となるも、まもなく没して無嗣改易となった[2]。家定は妹の縁故で高台院警護の任に当たったため難を逃れ、同年に徳川家康により備中国賀陽・上房両郡2万5000石の足守城主に移封された[9]。勝俊・利房は家定のもとに戻ったが、慶長13年(1608年)に家定が没すると後継を巡って争ったために所領は没収された[9]。
秀吉の死後豊臣家(羽柴家)を相続していた豊臣秀頼は、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で徳川氏により滅亡させられた。一方で利房は戦功により父の死後浅野家に預けられていた遺領備中国足守藩を継ぐことが認められた。これらの系統はすべて江戸時代を通じて木下氏を称している[10]。
大坂の陣後、羽柴家が断絶することを憂慮した高台院(秀吉正室。北政所)は利房の次男利次を養子とし、豊臣の社稷を継ぐ羽柴利次を称させた。高台院の死後、利次は遺領のうち近江国野洲郡・粟田郡の3,000石を相続し、木下姓に改めて旗本として存続した(近江木下家)[11]。
1642年には豊後日出藩主木下俊治は5000石の所領を弟延由に分与し、これにより立石領を領する交代寄合木下家が成立した[12]。なお日出木下家18代当主木下俊𠘑や19代当主木下崇俊によれば秀頼の遺児国松は日出へ逃れ、木下俊治の弟として延由になったという伝承が伝わっているという[13][14]。
明治以降
編集明治維新後、最後の足守藩主木下利恭も日出藩主木下俊愿も、明治2年(1869年)の版籍奉還で華族に列するとともにそれぞれの藩の藩知事に任じられ、明治4年(1871年)の廃藩置県まで藩知事を務めた[15]。
廃藩置県の際に定められた家禄は足守木下家の利恭が1052石、日出木下家の俊愿は1028石[16][注釈 1]。明治9年の金禄公債証書発行条例に基づき家禄の代わりに支給された金禄公債の額は、足守木下家の利恭が3万5000円(華族受給者中154位[注釈 2])、日出木下家の俊愿が3万2695円49銭2厘(華族受給者中163位)[18]。
1884年(明治17年)に華族令施行により華族が五爵制となり、利恭と俊哲は旧小藩知事[注釈 3]として子爵に叙せられた[20]。
旧交代寄合の立石木下家の当主俊清も朝臣に転じていた明治3年(1870年)に諸侯昇格願いを提出したが、不許可となっている[21]。同家は明治5年(1872年)3月10日に羽柴に復姓した[21]。その養子羽柴俊朗も叙爵請願運動を行い、本家筋の日出木下家の当主木下俊哲子爵からも叙爵請願が行われているが、結局実現せず同家は士族のままだった。先述のとおり同家には豊臣国松の子孫とする説もあるが叙爵請願においてはその点については触れていない[22]。
系譜
編集秀吉の木下家
編集足守木下家
編集日出木下家
編集その他の木下氏
編集賀茂県主の木下氏
編集賀茂別雷神社の氏人(うじびと)に、賀茂姓の木下家がいる[23]。
大江姓の木下氏
編集摂津国の木下氏
編集摂津国を拠点としていた木下氏である[23]。天正6年(1578年)、豊島郡箕輪城また穂積城を木下氏が築城したと伝えられている[23]。
伊勢国の木下氏
編集桓武平氏柘植氏族の木下氏
編集伊賀国発祥の氏族である[24]。柘植宗清の子・北村俊忠の子孫といわれる[24]。家紋は丸に釘抜、唐花(『寛政系譜』)[24]。
桓武平氏坪坂氏流の木下氏
編集大和国発祥の氏族である[24]。本願寺に仕えた、坪坂伯耆守の子・次郎左衛門が“木下”を称した[24]。家紋は三雁金、揚羽むかい蝶(『寛政系譜』)[24]。
遠江国の木下氏
編集天野景泰文書、手負人数に「木下藤三、木下虎景」が、義元加判文書に「木下藤次郎」の名前が見える[24]。
清和源氏佐竹氏流の木下氏
編集『新編武蔵風土記稿』に「木下氏、天正の水帳に木下右近あり。佐竹右馬頭義敦の男・石塚彦四郎宗義が末流なりという。この余百姓甚蔵というものあり。これも佐竹左京大夫義仁が末葉木下次郎というものの庶流なりとて、今も木下を氏とせり。天正の水帳には木下四郎左衛門としるせり」とある[24]。また入間郡入會十二人衆に「木下越後、木下方兵衛」という名前が見える[24][25]。
常陸国の木下氏
編集常陸国にいた木下氏である。『新編国志』に「木下、寛永旧記に、多賀郡桜井村に木下讃岐という浪士あり。戦功の者なりしという」と記されている。
荒木氏流の木下氏
編集荒木平大夫が羽柴秀吉に仕えて手柄をあげて、木下の氏を賜り木下備中守重堅と名乗ったことにはじまる木下氏である。『安西軍策』に「木下備中」と見える。秀吉が因幡国を平定した後、重堅は八束郡・智頭郡の2万石を賜い、若佐(若桜)に在城した。関ヶ原の戦いでは西軍に属したため除封される。家紋は丸の内に二つ引き。
『因幡志』には「山根、尾崎、田中ら木下被官か」と記述し、また因幡国智頭郡草木城(合野原村)は木ノ下乗雲という武士が在城していたといわれる。そして「大坪、横川、高橋、横尾らは木ノ下家人」と見える。
龍造寺氏家臣 木下氏
編集龍造寺隆信家臣の木下昌直が有名。猛将として知られ、龍造寺四天王のうちの一人に数えられた。
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脚注
編集注釈
編集出典
編集- ^ 世界大百科事典 第2版『木下氏』 - コトバンク
- ^ a b 日本大百科全書(ニッポニカ)『木下氏』 - コトバンク
- ^ 『尾張群書系図部集』三巻、p.634[要文献特定詳細情報]
- ^ 中興武家系図(宮内庁所蔵)
- ^ 小和田哲男『北政所と淀殿 豊臣家を守ろうとした妻たち』吉川弘文館、2009年、9-14頁
- ^ 桑田忠親著、日本歴史学会編『桃山時代の女性』吉川弘文館、1972年、70頁
- ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)『豊臣氏』 - コトバンク
- ^ a b 村川浩平 1996, p. 78.
- ^ a b 朝日日本歴史人物事典『木下定家』 - コトバンク
- ^ 新田完三 1984, p. 39/683.
- ^ 池田洋子「名古屋市秀吉清正記念館蔵《高台院(おね)画像》に関する考察ノート」『名古屋造形大学紀要』第18号、2012年、25頁。
- ^ 新田完三 1984, p. 683.
- ^ 木下家19代当主・木下崇俊「大坂の陣で殺された豊臣秀頼の遺児が生きていた?」(週刊朝日2016年1月19日)
- ^ 前川 1981, p. 85.
- ^ 新田完三 1984, p. 41-42/685.
- ^ 霞会館華族家系大成編輯委員会 1985, p. 16.
- ^ 刑部芳則 2014, p. 107.
- ^ a b 石川健次郎 1972, p. 46.
- ^ 浅見雅男 1994, p. 152.
- ^ 浅見雅男 1994, p. 147/152.
- ^ a b 松田敬之 2015, p. 570.
- ^ 松田敬之 2015, p. 568.
- ^ a b c d 太田 1934, p. 1923.
- ^ a b c d e f g h i j k 太田 1934, p. 1924.
- ^ 新編武蔵風土記稿 南入曽村.
参考文献
編集- 浅見雅男『華族誕生 名誉と体面の明治』リブロポート、1994年(平成6年)。
- 石川健次郎「明治前期における華族の銀行投資―第15国立銀行の場合―」『大阪大学経済学』第22号、大阪大学経済学部研究科、1972年、27 - 82頁。
- 太田亮「国立国会図書館デジタルコレクション 木下 キノシタ キシタ キゲ」『姓氏家系大辞典』 第2、上田萬年、三上参次監修、姓氏家系大辞典刊行会、1934年、1923-1928頁。全国書誌番号:47004572 。
- 刑部芳則『京都に残った公家たち: 華族の近代』吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー385〉、2014年(平成26年)。ISBN 978-4642057851。
- 尾道市役所 編『尾道市史』 [要文献特定詳細情報]、尾道市役所。 NCID BN10365952。
- 小田部雄次『華族 近代日本貴族の虚像と実像』中央公論新社〈中公新書1836〉、2006年(平成18年)。ISBN 978-4121018366。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『昭和新修華族家系大成 別巻 華族制度資料集』霞会館、1985年(昭和60年)。ISBN 978-4642035859。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成 下巻』霞会館、1996年(平成8年)。ISBN 978-4642036719。
- 華族大鑑刊行会『華族大鑑』日本図書センター〈日本人物誌叢書7〉、1990年(平成2年)。ISBN 978-4820540342。
- 「南入曽村」『新編武蔵風土記稿』 巻ノ164入間郡ノ9、内務省地理局、1884年6月。NDLJP:764002/70。
- 新田完三『内閣文庫蔵諸侯年表』東京堂出版、1984年(昭和59年)。
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- 堀田正敦 編「国立国会図書館デジタルコレクション 日出木下氏」『寛政重修諸家譜』 1520巻 。
- 堀田正敦 編「国立国会図書館デジタルコレクション 足守木下氏」『寛政重修諸家譜』 1520巻 。
- 前川和彦『豊臣家存続の謎 : 秀頼父子は九州で生きていた 戦国の秘史』日本文芸社、1981年。
- 松田敬之『〈華族爵位〉請願人名辞典』吉川弘文館、2015年(平成27年)。ISBN 978-4642014724。
- 村川浩平「羽柴氏下賜と豊臣姓下賜」『駒沢史学』第49巻、駒沢史学会、1996年。
- 史料