有井進斎
有井 進斎(ありい しんさい)は幕末、明治の儒学者。徳島藩寺島学問所素読方、長久館助教授、長崎師範学校(1874-1878年)教諭、陸軍参謀本部編纂課雇員、東京府師範学校兼中学校教官。
時代 | 幕末、明治 |
---|---|
生誕 | 天保元年(1830年) |
死没 | 明治22年(1889年)5月22日 |
別名 | 名:範平[1] |
墓所 | 音羽蓮光寺 |
藩 | 阿波藩 |
氏族 | 有井氏 |
父母 | 有井要蔵、武田氏[2] |
妻 | 由良氏[3] |
子 | 有井猪太郎、一女[3] |
経歴
編集徳島時代
編集那波鶴峰に業を受け、小出兼政に算術、岩本贅庵に経書、史書を学び、寺島学問所素読方、西の丸長久館助教授を務めた[2]。履歴書によれば、明治元年(1868年)11月12日徳島藩町学校長、明治2年(1869年)10月15日学校洋書局一等助教、明治3年(1870年)6月1日漢学校教授となっている[4]。
長崎時代
編集長崎師範学校(1874-1878年)教員を命じられた門弟岡本韋庵に代わりを依頼され[5]、明治4年(1871年)6月教員、明治5年(1872年)6月文部省十等出仕、8月教諭となった[4]。学生からの評判は悪くなかったが、無口な性格のため同僚等と打ち解けず[5]、明治6年(1873年)2月退職した[4]。
東京時代
編集上京後、岡本韋庵宅に身を寄せ、明治13年(1880年)11月2日[4]韋庵の属する陸軍参謀本部編纂課に就職した[2]。参謀本部では軍人勅諭の草案に関わったともいわれる[5]。
明治15年(1882年)頃、秋永蘭二郎、谷口復四郎と講学所集義館を設立し、名分論布教のため国史編纂を計画したが、明治17年(1884年)の復四郎没後、廃絶した[6]。
著作
編集人物
編集程朱学を墨守し、陽明学を排斥した[5]。同窓芳川顕正が高橋家養子に入った際、養祖父高橋赤水の遺した古学書に没頭したため、進斎は絶交を言い渡し、半年後浅野玄碩の仲裁でようやく縒りを戻したという[7]。詩は杜甫、李商隠を好んだ[5]。
無口でうわべを飾らず[5]、嘉永5年(1852年)頃入門した岡本韋庵は、当初「極めて蠢物」「風標揚がらず、音吐訥渋」との印象を受けたと記している[1]。一方、酒に酔うと人を罵る一面もあった[3]。
脚注
編集参考文献
編集- 有馬卓也「有井進斎の人と思想」『凌霄』第16号、四国大学附属図書館、2009年3月。
- 「参謀本部より有井範平御用掛申付相成度旨上申の件」 アジア歴史資料センター Ref.C10071020600