文理台公園(ぶんりだいこうえん)は、東京都西東京市東町にある面積1.667ヘクタールの都市公園である [1]

文理台公園
文理台公園の位置(東京都内)
文理台公園
分類 都市公園
所在地
座標 北緯35度44分38.3秒 東経139度33分43.0秒 / 北緯35.743972度 東経139.561944度 / 35.743972; 139.561944座標: 北緯35度44分38.3秒 東経139度33分43.0秒 / 北緯35.743972度 東経139.561944度 / 35.743972; 139.561944
面積 16,671.21 m2
前身 東京文理科大学グラウンド
開園 1984年昭和59年)4月1日
運営者 西東京市
設備・遊具 ブランコ、1回転すべり台、ジャングルジム、鉄棒、砂場、ロッキンパッピー
事務所 西東京市みどり公園課
公式サイト 文理台公園
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概要

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東京文理科大学(もと東京高等師範学校東京教育大学、現・筑波大学)の運動場であったことから文理大の大と台をもじって文理台公園と名付られた。文理大理科(現・筑波大学生物資源学類・生物資源科学関連専攻)の農場があったが、一部は現在も筑波大学附属小学校の保谷田園教場として残っている。

東京府北多摩郡保谷町や下保谷字北新田一帯は有力地主で1915年(大正4年)の武蔵野鉄道(現西武池袋線)創設に関わった高橋家のものであったが、関東大震災(1923年)以前から武蔵野鉄道と共同で自分の地所を借地や借家として開発、沿線の開発と発展のため高橋家が東町に安い借地料で学識者や文化人を誘致していた[2]

震災後には資生堂の社長の福原信三の私設秘書であった安成三郎が社員の勧めでこの地に転居していた。福原が社員の健康のために運動場を探していたのを安成が尽力、この地に社員のための野球場を造ったのが成り立ち。

その後、野球場は文理大・高師の保谷運動場と附属農場になる。運動場には400mトラックと投擲場、跳躍場、サッカーおよびラグビーのゴール、さらに2階建ての合宿所と1階建ての教官室が設けられ、1936年(昭和11年)9月に開場式を行った。1938年(昭和13年)2月には日本陸連から第三種競技場として公認された[3]。附属農場は東京市小石川区護国寺裏にあったものを1937年(昭和12年)に移転した[4]

1984年(昭和59年)、国と東京都・旧保谷市の3分割で買い上げて文理台公園が開設される。公園部分は、北側に遊戯広場と下水処理施設、南側に池とソメイヨシノの森林帯になっている。西側にはシダレザクラの並木で、毎年春には多くの人が楽しむことができる[1]

脚注

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参考文献

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  • 東京文理科大学、東京高等師範学校編纂 『創立七十年』 培風館、1941年10月。
  • 森雅雄「学会付属博物館のこと」『民族學研究』第55巻第1号、1990年、98-104頁、doi:10.14890/minkennewseries.55.1_98 
  • 丸山泰明『渋沢敬三と今和次郎』青弓社、2013年12月3日。ISBN 978-4-7872-2053-0 
  • 横浜歴史博物館、神奈川大学日本常民文化研究所『屋根裏の博物館 : 実業家渋沢敬三が育てた民の学問』横浜歴史博物館、2012年10月。 NCID BA60413771 
  • 保谷市史編さん委員会(編) 編『保谷市史』保谷市史編さん委員会、1989年1月。 NCID BN06255258 

関連項目

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外部リンク

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