市川門之助 (2代目)

江戸時代の歌舞伎役者

二代目 市川門之助(にだいめ いちかわ もんのすけ、寛保3年〈1743年〉 - 寛政6年10月19日1794年11月11日〉)とは、江戸時代中期の歌舞伎役者俳名は海丸・新車・龍車、屋号瀧乃屋定紋は三升に辨の字、のち三升に門の字、替紋は丸に一の字。

二代目市川門之助の伊達与作。寛政6年(1794年)5月、江戸河原崎座『恋女房染分手綱』より。東洲斎写楽画。

来歴

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都八重太夫こと重岡重兵衛の子で江戸王子瀧の川村に生まれる。幼名は千吉。宝暦元年(1751年)、大坂で瀧中鶴蔵を名乗って初舞台。宝暦6年(1756年)江戸に戻る。宝暦9年11月、二代目瀧中秀松を襲名。宝暦12年(1762年)に初代市川門之助の養子となり、また四代目市川團十郎の門下に入って市川瓣蔵と改名。明和7年(1770年)11月、中村座顔見世『鵺森一陽的』で二代目市川門之助を襲名する。寛政2年(1790年)、甲州の亀屋与兵衛座にて『仮名手本忠臣蔵』で大当りをとる。その四年後、病により没す。享年52。墓所は世田谷区幸龍寺の他、1~5代の合同墓が雑司ヶ谷霊園にある。

二代目市川八百蔵三代目澤村宗十郎初代尾上松助とならんで、当時の若手人気役者の一人に数えられ、和事荒事武道事舞踊を得意としたが、女形の役にも扮して所作事を勤めた。長男に初代市川男女蔵がいる。

参考文献

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  • 伊原敏郎 『近世日本演劇史』 早稲田大学出版部、1913年 ※国立国会図書館デジタルコレクションに本文あり。195頁、110コマ目。
  • 朝日新聞社編 『朝日日本歴史人物事典』 朝日新聞社、1994年[1]
  • 野島寿三郎編 『歌舞伎人名事典』(新訂増補) 日外アソシエーツ、2002年

関連項目

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