川添修平
川添 修平(かわぞえ しゅうへい、1897年(明治30年)8月2日[1] - 没年不明)は、大正から昭和時代前期の朝鮮総督府官僚、台湾総督府官僚、陸軍司政官。嘉義市尹、基隆市尹。
経歴・人物
編集宮崎県南那珂郡吾田村に生まれる[2]。1917年(大正6年)宮崎県立宮崎中学校、1921年(大正10年)旧制第五高等学校を経て、1924年(大正13年)東京帝国大学法学部法律学科英法を卒業し、朝鮮総督府に奉職[1]。翌年の1925年(大正14年)11月、一時退官し、東京日日新聞に入社[1]。
同月、高等試験行政科に合格し、1929年(昭和4年)3月、台湾総督府に出仕[1]。財務局税務課勤務、同年12月に警部を経て、1930年(昭和5年)1月に地方理事官に進み、澎湖庁庶務課長、同年12月に台南市助役、1931年(昭和6年)5月に台南州新営郡守、1932年(昭和7年)4月に台北市助役を経て、1933年(昭和8年)10月、嘉義市尹に就任した[1]。ついで、1936年(昭和11年)10月、基隆市尹に転じ[1][3]、1937年(昭和12年)専売局参事、澎湖庁長を経て、1942年(昭和17年)陸軍司政官に就任した[4]。
栄典
編集- 位階
脚注
編集参考文献
編集- 原幹洲 編『南進日本第一線に起つ新台湾之人物』拓務評論社台湾支社 勤労富源社、1931年 。
- 台湾新民報社 編『台湾人士鑑』呂霊石、1937年 。
- 興南新聞社 編『台湾人士鑑』呂霊石、1943年 。