小野 仁(おの ひとし、1976年8月23日 - )は、秋田県秋田市八橋出身の元プロ野球選手投手)。左投右打。アトランタオリンピック野球の銀メダリスト。

小野 仁
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 秋田県秋田市
生年月日 (1976-08-23) 1976年8月23日(48歳)
身長
体重
187 cm
83 kg
選手情報
投球・打席 左投右打
ポジション 投手
プロ入り 1996年 ドラフト2位(逆指名)
初出場 1997年7月16日
最終出場 2001年4月29日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
国際大会
代表チーム 日本の旗日本
五輪 1996年
オリンピック
男子 野球
1996 野球

来歴・人物

秋田経法大付属高校2年時に、春夏連続で甲子園に出場したが、いずれも初戦敗退。第65回選抜大会では鳥取西戦で16安打を許し、7四死球を出したものの、逆に15三振を奪い、注目を集めた。3年時では春夏連続で甲子園に出場できなかった。1994年の世界選手権で高校生としては史上初の代表入りを果たす。左腕から150km/h近いストレートを武器に強豪キューバ戦にて1点リードされている6回の場面から登板しキューバの主軸のアントニオ・パチェコオマール・リナレスに対して立て続けに三球三振を奪う等、超高校級の逸材といわれ、ドラフトでは最大の目玉[1]として8球団が競合すると言われた[2]

しかし、1994年11月1日に記者会見を開き、日本石油に進むことを明らかにした[3]。当時のドラフト制度では、高校生には逆指名制度がなく、また五輪候補選手としドラフト凍結選手となれば通常の3年ではなく2年後に逆指名でプロに進めることから[4]、この点が社会人野球に進んだ理由と推測され[2]、社会人野球は腰掛け程度のものかもしれないと評された[2]。その後、11月9日に全日本アマチュア野球連盟からドラフト凍結選手として指定され[5]、ドラフトの対象から外れた。

日本石油では故障の影響でフォームを崩すなど伸び悩み、目立った成績を残せなかった[6]

1996年アトランタオリンピックに出場。アマチュア凍結選手の特例[7]として同年のドラフト会議にて巨人から2位指名(逆指名)を受けて入団。契約金1億円、年俸1300万円で当時の限度額の上限であった[8]

1年目の1997年は、二軍で5勝1敗・防御率1.88で夏には一軍で初勝利を挙げるなど、大器の片鱗を見せた。

1998年は、二軍において、5月30日のロッテ戦で1試合20奪三振のイースタン新記録を達成するなど、6勝3敗・防御率2.96で、後半戦からは一軍の先発ローテーションに入る。

1999年には背番号12を剥奪され、47へ変更された。小野自身は「工藤さんと同じ背番号で、工藤さんと同じ左投手の自分には縁起がいい」と前向きに捉える発言をしていた[9]。同年の春季キャンプ終了時にも、成長株として注目された[10]。しかし、オープン戦では1回3分の0を6失点で、長嶋監督から「無気力だった」と言われる[11]始末で、シーズン中はほぼ二軍であった。二軍では、8勝4敗・防御率2.55の成績を残す。

2000年には、前年からの新たな背番号がFA福岡ダイエーホークスから移籍した工藤によりわずか1年で剥奪された。もっとも、小野自身は、「ずっと目標にしてきた左腕の大先輩。“使って下さい”とお渡ししました」と述べた[12]。この年は、期待の高さからオープン戦で開幕投手を務めるも、3回6失点で長嶋監督に「小野はピリッとしないね。いいとこなしだよ。チャンス?もう1回ぐらいあるだろう」[13]と言われ、続く登板でも2/3回2失点で長嶋監督に「小野は相変わらずだめだな」[14]と言われるなど、この年もほぼ二軍で過ごす。二軍では、10勝3敗・防御率3.42で、最多勝、最高勝率、殊勲賞を受賞する。

2001年は、二軍ではノーヒットノーランを達成するなど、10勝6敗1S・防御率2.54で2度目の最多勝に輝く。投球イニングは両リーグで1番多かった。

2002年は、二軍で6勝3敗・防御率1.68で、初の最優秀防御率を獲得した[6]が1軍での登板はなかった。同年11月永池恭男と共に中濱裕之吉川元浩との交換トレードで大阪近鉄バファローズへ移籍。2003年シーズンも1軍で登板機会はなく、 2軍ですら防御率31.91[6]と戦力にはならず、2003年戦力外通告を受け退団した。NPBでは通算3勝に終わった。

2004年メジャーリーグミネソタ・ツインズとマイナー契約を結んだが、マイナーリーグを含めて公式戦の登板機会はなかった[15]2005年11月7日12球団合同トライアウトに参加するが、3四球と結果は残せず獲得する球団はなかった。

その後はさまざまな職を転々とし[16]、2017年10月、白寿生科学研究所入社。同社では人材開拓課に配属され、運動部に所属する大学生向けのキャリアデザインを行う業務を担当し[17]、同社所属の肩書でスポーツコミュニケーションズ(二宮清純代表)の野球関連コーナー連載記事を2021年9月まで複数回執筆した[18]

詳細情報

年度別投手成績





















































W
H
I
P
1997 巨人 11 1 0 0 0 1 0 0 -- 1.000 81 17.1 21 3 7 0 0 13 0 0 16 13 6.75 1.62
1998 15 11 0 0 0 2 7 0 -- .222 265 59.0 66 7 29 0 3 40 4 0 35 34 5.19 1.61
1999 2 2 0 0 0 0 1 0 -- .000 36 6.2 8 1 7 0 0 5 1 0 8 5 6.75 2.25
2000 1 1 0 0 0 0 0 0 -- ---- 17 3.1 5 0 2 0 0 0 0 0 2 2 5.40 2.10
2001 7 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 43 7.1 12 1 7 0 1 7 0 0 8 6 7.36 2.59
通算:5年 36 15 0 0 0 3 8 0 -- .273 442 93.2 112 12 52 0 4 65 5 0 69 60 5.77 1.75

記録

背番号

  • 12 (1997年 - 1998年)
  • 47 (1999年)
  • 13 (2000年 - 2002年)
  • 15 (2003年)

脚注

出典

  1. ^ 読売新聞1994年9月16日夕刊3面
  2. ^ a b c 朝日新聞1994年12月20日17面
  3. ^ 読売新聞1994年11月2日23面
  4. ^ 朝日新聞1994年11月02日23面
  5. ^ 読売新聞1994年11月9日16面
  6. ^ a b c 「超高校級の逸材」もプロで3勝のみ キューバを驚かせた150キロ左腕とは 週刊ベースボールONLINE 2020年10月14日
  7. ^ 通常、高卒社会人は3年を満たないと指名を受けられないが、当時指名凍結選手は当該オリンピック後のドラフトではその規定に関係なく指名できた。
  8. ^ 毎日新聞1996年12月18日24面
  9. ^ 二宮清純、江川卓 『江川卓 スカウティングレポート'99』 ザ・マサダ、1999年。ISBN 4-915977-84-6
  10. ^ 読売新聞1999年3月1日夕刊
  11. ^ 朝日新聞3月18日朝刊
  12. ^ 読売新聞2000年1月21日朝刊
  13. ^ 読売新聞2000年2月28日朝刊
  14. ^ 2000年3月10日
  15. ^ Hitoshi Ono BR Bullpen 2023年11月3日閲覧
  16. ^ “かつて高校生でキューバの主砲を封じた元巨人・小野仁の今 ようやく見つけた“やるべきこと””. スポーツ報知. (2017年9月11日). オリジナルの2017年9月14日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20170914070949/http://www.hochi.co.jp/baseball/column/20170911-OHT1T50085.html 2023年11月24日閲覧。 
  17. ^ キャバクラ黒服の経験も糧に 元巨人の小野仁さん日刊スポーツHP 引退後の世界 2018年2月11日 2023年11月2日閲覧
  18. ^ SPORTS COMMUNICATIONS 株式会社スポーツコミュニケーションズ

関連項目

外部リンク