安保清康
安保 清康(あぼ きよやす、1843年1月30日(天保14年1月1日) - 1909年10月27日)は、日本の海軍軍人。最終階級は海軍中将。男爵。旧姓は林。通称は謙三。海軍の先覚者の一人[1]。
経歴
編集備後国御調郡向島西村(現在の広島県尾道市)の医師・林金十郎の四男として生れる[2][1]。12歳で広島に出て漢学、医学を学ぶ。1860年、長崎で医学を学び、英国軍艦に乗組んで二年間軍学を学んだ。1865年何礼之が開設した私塾で前島密らとともに学ぶ。 薩摩藩の講師として招かれた前島に誘われ薩摩藩へ移る。1866年、小松清廉、西郷隆盛に請われ薩摩藩の海軍養成に携わる。1867年薩摩藩に軍艦「春日丸」を購入するよう島津久光に進言。同年「春日丸」に乗組んで三条実美らを筑前から迎え、1868年「春日丸」艦長となる。同年、幕府艦「開陽」と阿波沖に戦い、ついで奥羽北越に転戦した。のち兵庫軍務官出仕、「和泉丸」艦長、兵部権少丞(大坂在勤)、兵部少丞を経て、1871年、陸軍中佐。大坂鎮台に勤務し1872年、兵部省が陸軍、海軍に分割されると海軍に身を投じ海軍中佐任官。海軍の創設に携わり徴兵令の必要を主張した[3]。以後、海軍省軍務局勤務、兼水平本部長、台湾蕃地事務局勤務、海軍省副官兼軍務局長、兼東海鎮守府副官、神戸臨時海事事務局長などを歴任した。この間、佐賀の乱・台湾の役・西南戦争に出征、1880年2月、海軍少将に進級。
兼東海鎮守府長官、海軍省副官、規程局長、参事院議官出仕、元老院議官を経て、1886年1月、主計総監・会計局長となる。1889年3月、少将に復任し海軍将官会議幹事、技術会議議長を歴任し、1890年9月、海軍中将に進級。海軍大学校長、佐世保鎮守府長官を務め、1894年7月、予備役に編入されたが、翌年5月に召集を受け呉鎮守府司令長官に1896年2月まで在任した。1906年1月1日、後備役となる[4]。
1896年6月5月、日清戦争の功により男爵を叙爵し華族となり[5]、同年12月、「安保」に改姓した。
坂本龍馬の晩年の友人で、1867年11月、龍馬が暗殺される直前に、手紙のやりとりをしていた人物の一人。林は面談を求める龍馬からの手紙に促され上京し11月16日、近江屋に着き惨劇を知った。谷干城らと瀕死の重傷を負った中岡慎太郎から暗殺の状況を聞き、遺体を鳥野辺に埋葬したとされる[2][6]。墓所は青山霊園。
栄典
編集- 位階
- 1873年(明治6年)6月25日 - 従五位[7]
- 1886年(明治19年)10月28日 - 従四位[8]
- 1890年(明治23年)10月8日 - 従三位[9]
- 1909年(明治42年)10月27日 - 従二位[10]
- 勲章
- 外国勲章佩用允許
親族
編集脚注
編集- ^ a b 『広島県大百科事典』、中国新聞社、1994年、36頁
- ^ a b 幕末明治のイギリス外交官・アーネスト・サトウと旧友安保清康
- ^ 『新日本人物大観』(広島県版) 人事調査通信社、1959年 ア・イ…4頁
- ^ 『官報』第6754号、明治39年1月8日。
- ^ 『官報』第3880号、明治29年6月6日。
- ^ 高知県立坂本龍馬記念館|調べる|龍馬Q&A
- ^ 「甲1番大日記 式部寮達 赤塚真成外15名叙位の件」 アジア歴史資料センター Ref.C09111306600
- ^ 『官報』第1003号「叙任及辞令」1886年11月1日。
- ^ 『官報』第2187号「叙任及辞令」1890年10月11日。
- ^ a b 『官報』第7906号「叙任及辞令」1909年10月29日。
- ^ 『官報』第1473号「叙任及辞令」1888年5月30日。
- ^ 『官報』第3644号「叙任及辞令」1895年8月21日。
- ^ 『官報』第3862号・付録「辞令」1896年5月16日。
- ^ 中野文庫 - 旧・勲一等旭日大綬章受章者一覧(戦前の部)
- ^ 『官報』第573号「賞勲叙任」1885年6月1日。
著書
編集- 『男爵安保清康自叙伝』安保清種出版、1919年。
参考文献
編集外部リンク
編集軍職 | ||
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先代 有地品之允 |
呉鎮守府府司令長官 1895年 - 1896年 |
次代 井上良馨 |
先代 赤松則良 |
佐世保鎮守府司令長官 1891年 - 1892年 |
次代 井上良馨 |
先代 伊東祐亨 |
海軍大学校長 1890年 - 1891年 |
次代 仁礼景範 |
先代 相浦紀道 |
海軍技術会議議長 1890年 |
次代 相浦紀道 |
先代 伊東祐麿 |
東海鎮守府司令長官 1880年 |
次代 中牟田倉之助 |
日本の爵位 | ||
先代 叙爵 |
男爵 安保(清康)家初代 1896年 - 1909年 |
次代 安保清種 |