字余り
字余り(じあまり)とは、日本の定型詩(和歌[1]、俳句[2]など)において定型音数律(五・七・五、あるいは七・七)を超過することを指す。音数が五もしくは七ではなく、六、八などとなり、違和感を感じる場合もある。
ただし字余りであっても、その中の単独母音(ア・イ・ウ・オ)を短く曖昧に発音しても違和感が小さい場合もあり、定型音数へ近付くことから、古代より意識されており、則った作品も少なくない[3][4]。
概説
編集字余りは定型のリズムを崩してしまうため、意味なく用いられることは忌避される傾向にあり、特に中七の字余りについては和歌における修辞的欠落の一つ「中鈍病(中飽病)」と呼ばれている[8]。よって以下のように注意書きがされている入門書も存在する。
一音の無駄が一句のリズムに弛緩をもたらし、そのために佳句となるべきものが駄句になり下がってしまう、ということだってあるのだ。(中略)あえて『字余り』にする技法もあるが、それは名手のすることと肚をくくって今はひたすら五・七・五の韻律の美しさを追求してもらいたい。[9]
われわれは俳句が破調になることを、いたずらにおそれてはならぬ。(中略)しかしながら帰着するところは、やはり五七五である。この型は俳句の典型であり原型である。この典型を故意に崩して破調にすることが、何か新しい型の試みであるかの如く錯覚することがあれば、俳句形象化の苦労を放棄することになる。[10]
効果
編集しかしながら、字余りを意図的に用いている作品もある。
塚もうごけ我が泣声は秋の風(松尾芭蕉)
浮浪児昼寝す「何でもいいやい知らねえやい」(中村草田男)
(小島健 2003)は各句について「感情の大きな昂ぶりが字余りとなる」、「思いのマグマが爆発したかのようである。感動の昂ぶりは時として、定型を幾度もはみ出す。」と評している[11]。このように、字余りは定型に収まりきらない感情の昂ぶりを表現することができると言える。
字余りの限界
編集字余りの限界について考える際に指針となるものが、(土居光知 1922)が提唱し、別宮(1970)が確立させた二音一拍四拍子理論である[12][13]。これは一音を八分音符ととらえ、短歌の五・七・五・七・七のモーラに対して、三・一・三・一・一の休符を設けることで、八・八・八・八・八の四拍子のリズムを保つという理論である。
これに則って考えると、俳句の字余りの限界は二十四音、短歌の限界は四十音となり、規定音数の十七音、三十一音を大きく超えることになる。
これに対し(高山倫明 2006)は「たしかに「各句が八音以下なら」四拍子のリズムは崩れないかもしれないが、上記の歌のすべての拍を同等に詠んだのでは、和歌としては明らかに破調であり、調子外れ以外の何者でもない」と批判している[1]。
脚注
編集参考文献
編集- 秋元不死男『俳句入門』角川学芸出版、2007年。
- 犬養廉・井上宗雄・大久保正 他編『和歌大辞典』1986年、明治書院
- 井上泰至, 片山由美子, 浦川聡子, 井上弘美, 石塚修, 中岡毅雄, 深沢眞二, 岸本尚毅, 青木亮人, 木村聡雄, 森澤多美子『俳句のルール』笠間書院、2017年。ISBN 9784305708403。全国書誌番号:22868325 。
- 尾形仂『俳文学大辞典』角川書店、1998年。
- 小島健「字余りと字足らずの名句50 : 定型感覚があるからこそ」『俳句』第52巻第5号、角川文化振興財団、2003年4月、90-95頁、CRID 1523951030716554880、ISSN 13425560、NAID 40005730857。
- 高山倫明「音節構造と字余り論」『語文研究』第100/101巻、九州大学国語国文学会、1-15頁、2006年6月。CRID 1390290699739116928。doi:10.15017/8918。hdl:2324/8918。ISSN 0436-0982 。
- 高山倫明『日本語音韻史の研究』ひつじ書房〈ひつじ研究叢書〉、2012年。ISBN 9784894765764。全国書誌番号:22186869 。
- 土居光知『文學序説』岩波書店、1922年。 NCID BN0662341X。全国書誌番号:43014146。
- 平井照敏「破調」『俳句』1983年8月。
- 藤田湘子『俳句作法入門』角川書店、2003年。
- 別宮貞徳『日本語のリズム : 四拍子文化論』講談社〈講談社現代新書〉、1977年。ISBN 4061158880。 NCID BN03923392。